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枯葉を焦がす煤けた匂いが、庭から流れてくる。
学校から帰宅した制服姿のまま、夏美は当たり前の日常行為の如く自然さで、リビングのサッ シを開けてサンダルを履き、野営テント前の焚き火に足を向けた。 ブロックに座って火を見ていたギロロがこちらに気付き、振り向く。 彼の眼差しが真っ直ぐに、射抜くが眼力で自分に届いてるのが判る。 だから、今の自分の表情も、その裡に潜むものも簡単に識別されてしまっているだろう。ただ でさえ彼は、こちらの些細な変化にすら感付くほどの力量を持っているから尚更だ。 夏美は、軽く心臓が早足になるのを感じた。 そして何の言葉も挨拶も発さず、ギロロの右隣に据えられているもうひとつのブッロクに腰を下 ろす。そのまま膝を抱え、目の前ではぜる枯葉や小枝を凝視し始めた。 彼は暫く、こちらに視線を固定していたが、短い溜め息をついた後に前に向き直り、彼女と同 じ場所に視界を移動させて停止する。 長い沈黙が、ゆっくりと転がり出す。 どれほどそうしていたか。 遂に、夏美が訝し気に口を開く。 「何で何も訊かないのよ・・・」 僅かな、苛立ち。 対してギロロは、炭化した枝を鉄串で動かして言葉を返す。 「話したければ話せばいい。話したくなければ、何も言わんでいい」 「何よそれ・・・」 拗ねたような口調で応ずるも、裡では妙に感心する。 彼らしいな、と。 押し付けがましくなく、されど拒絶する訳でもない。 今の自分の心理状態に最適な、非常に絶妙な距離を置いてくる。場所も上でなく、下でもな い。時には真正面から、時には真横から、ある時は真後ろから―――差し出がましさを欠片も 感じない、安心して気持ちを委ねていいと思わせる位置に、ギロロは存在するのだ。 それまでおのれの内部に渦巻いていたうねりが、あっという間に凪がれていく。 彼と少し話しただけでもこれだ。 心の不調改善とその解熱効果は、他の誰よりも凄い。 夏美は軽い笑みを唇に浮かべ、顔を傾げてギロロを見詰めて強く思う。 本当に頼りになる、と。 やがて彼女の口が、開く。 「ねぇギロロ」 「何だ？」 彼の返事を合図に夏美は、ある事件からずっと胸の淵に埋めていたことを話し始めた。 「前にエレベーターに閉じ込められた時のこと、覚えてる？」 「ああ・・・あれは大変だったな。よく無事で戻って来れたと思える」 嘆息混じりに、ギロロは自嘲気味な声色で返す。その時の様々な出来事を思い出したのか、 顔を赤くして両眼を伏せる。 夏美が呼応したように頬を薄紅色に染め、微かな声で呟いた。 「無事に戻れたのはギロロのお陰だけど、ね・・・」 「何だ？」 「ううん、何でもない」 訝し気にこちらを向く彼に軽く首を振って、先ほどの言葉を見えないところへ流す。 そして目線を橙色の炎にぼんやりと投げ、唇を動かした。 「あん時聞いたコト、まだ答えてもらってないんだけど・・・」 一旦、切られる台詞。 何故か身体の裡に湧き出る緊張感を覚えながら、夏美は唾を飲み込み、それでも微かに乾 き始めた咽喉からその質問を放り投げた。 「ギロロって・・・好きな人、いるの？」 「んなっ！」 ビクッ、と彼の両肩が跳ね、口をここぞとばかりに開放して凍て付く。 直後、全身は茹でている最中の蛸の如く染められ、ただでさえ赤い地肌が熱をもって鮮やか な朱色を醸し出していった。 それでも彼女は、一切の緩和もなしに追い撃ちを掛ける。 「あたしは答えたでしょ？ ギロロも答えてよ」 「そ・・・そそそそれは・・・だな・・・」 白目が多くなった両眼を伏せ、こちらから痛いくらいに注ぎ込む視線から彼は逃れようとする。 唇の端が覚束なく震え、単語を構成出来る雰囲気が欠片もない。 永い、永い沈黙。 自分の中の張り詰めた空気が薄まり、彼女が回答を諦めかけた、その時。 ふうう、と腹の底から息を吐き、両方の目を固く閉じてギロロが短く言った。 「・・・いる」 途端。 夏美の胸の半分ほどが、急激に冷えた。 瞳孔が少し開いて固定され、思考の帯が鋏のようなもので裁断される。 空白の脳内。 それから心の細動を取り戻すのに、どれだけの時間を要したろう。 漸く、本当に漸くといった感じで、夏美が囁く。 「・・・ふぅん、いるんだ・・・」 何とも無機質―――僅かの感情をも殺して零れた、言葉。 理由の明確でない悲壮さが心理の遥か奥深くから急速に深度を上げ、目視で確認出来る場 所までに達した。それが鋭い槍を何本も突き上げ、彼女の琴線に攻撃を加え始める。 駄目だ、このままでは。 ただ二者択一の質問に答えただけの彼に、余計な気遣いをさせてしまう。 夏美は奥歯をグッと噛み締め、相手に聞こえないほどに一瞬の息を継ぐ。 何でもいい。ギロロと話そう。 話を進めるうちに別な何かが見えてくるかも知れない。 それまでの感情を出さずに押さえ込んで、彼女が言葉を紡ぎ始める。 「・・・ねぇ・・・その人って、ギロロにとっては『憧れ』なの？ それとも『恋』なの？」 瞬時に彼の顔が真剣なものへと転化し、両腕を組んで、むう、と小さく唸る。 幾許かの間を置いて、少し首を傾げてギロロは声を漏らす。 「その違いが、俺にはよく解らんが・・・少なくとも『憧れ』とやらではなさそうだ」 「じゃあ、ギロロはその人に『恋』してるんだ？」 夏美は間髪を入れずに、彼にピタリと照準を合わせた視線と共に質す。 まるで、おのれの中に生まれた澱んだ空気を薙ぎ払うが如く。 「・・・それも違うかも知れん」 「どういうこと？」 「・・・どちらでもないような感じだ」 「もう・・・わかんないよギロロ」 彼女の唇が、苛立ったような色彩の台詞を発する。 今度の回答は二択のどちらも選ばず、予想外な言葉が返ってきたからだ。 「何か禅問答やってるみたい。解りやすく答えてほしいんだけど」 するとギロロは一旦目線を伏せ、口を真一文字に結んで黙り込む。 恐らくは彼も、はっきりとした形を持たない、表現に窮する漠然とした感覚を心の裡に持ってい るのだろう。いつもはきっぱりと断言出来そうな口調に、強さが感じられない。 ふと、彼女は考える。 このまま話を続ければ、きっと何か得られるかも知れない。 もっと踏み込もう、彼の領域に。 きちんと座り直す仕草をした後、夏美は自分でも驚くほど矢継ぎ早に、心に引っ掛かった感覚 を単語として再構築して語り始めた。 「こないだの話の続きみたいだけど、やっぱりあたし、『憧れ』と『恋』って別の気持ちだと思え るの。どう違うのか、って言われるとハッキリ答えらんないけど・・・こないだギロロはこの話、『俺 の管轄外だ』って言ったでしょ？ でもさ、好きな人がいるんだったら、今ギロロが想ってる人っ てのが『憧れ』か『恋』のどっちかだ、って思えない？」 話し終え、どうだ、と言わんばかりに軽く胸を張る。 ギロロが顔を上げて夏美に目を向けた。 高い透明度を保持した瞳が、直線で自分の心に飛び込む。また強く拍を打つ鼓動に戸惑いを 隠せず、彼女の口元がキュッと結ばれる。 今度の彼の視線には、それなりの力が籠っている。恐らくは自分の考察に、ある程度の目途 が立ったのだろう。次に発された台詞が、それを代弁していた。 「人を想う気持ちとやらが、そんなに簡単に二極化出来るとは思えんな。もっと複雑なものだ ろう。第一そんなに判りやすいものなら、作戦を練るのも難儀でない上に、攻略も苦労せん」 「・・・何かギロロと話してると、誰かを好きになるのも軍事訓練になっちゃうみたい」 軽い苦笑混じりに、夏美が返す。 ギロロは一瞬目を閉じ、ふっ、と自嘲気味に笑みを浮かべて応ずる。 「俺は、俺だからな。こんな答えしか出せない」 「うん、何か判る。ギロロらしいよね。でもやっぱ、解りづらい質問だったかな？・・・答えてくれ てありがとね」 彼女はそう繋げ、温もりを湛えた柔らかい笑顔を向けた。 対する彼は、照れが出たのか両頬に朱が混じり、やや目を伏せて再びグッと口元を結んでし まう。よく見ると顔全体も地肌とは違う赤みが広がっており、気のせいか頭上から湯気まで漂っ ている雰囲気すらある。 そんな変化をじっと見詰めている夏美の気持ちの奥底から、ほのかな温もりが滾々と湧き上 がってくる。時折しか見せない、彼のこの表情を目の当たりにすると、彼女は何とも言えない気 分になるのだった。 まるで大切な玩具を引き出しに仕舞うように、夏美は今のギロロの表情を胸の奥に焼き付け てみる。それから前に向き直って野営テント付近に目線を投げ、口を開く。 「でもまあ、ギロロの言うのにも一理あるような気がするなぁ」 隣の彼がその言葉に反応し、黙ったまま顔を上げて自分と同じ辺りに視界を移した様子だ。 ひとつの考えに辿り着きそうな静かな表情で、彼女は続ける。 「もしかしたら・・・『憧れ』でも『恋』でもない、別の気持ちで人を好きになることもあるのかも ね・・・」 言い終えて、短く息を継ぐ。 暫くの沈黙が始まった。 ギロロは鉄串を二、三回炎の中で動かし、火の粉を舞い上がらせる。 夏美は再び彼を見詰め、何かを話さんと唇を開こうとする。 何故か、躊躇う。次の言葉が出てこない。 しかし、ゴクッ、と唾を流し込む音を立てた後、彼女は意を決して問う。 「ねぇギロロ・・・ギロロの好きな人って・・・近い人？」 直後。 落雷を受けたかのように一瞬飛び跳ね、ギロロが目を見開いて視線を返した。 「そっ！ それは・・・言えん！」 「別にいいじゃない。遠くの人か近くの人かくらい」 間髪を入れずに台詞を放る。 それでも彼は、回答を提示する気配がない。 やがて、やや怒ったような棘を含んだ言葉が相手から転がり落ちた。 「・・・勝手に想像していろ」 「何よそれー、可愛くないなぁ」 不満を全面に押し出した顔と口調を晒し、夏美が俯く。 だが彼女の裡では、それとは裏腹の感情が逆巻いている。 答えてくれなくてよかったかも知れない。 もしも先ほどの質問に彼が澱みなく応じたら―――今の自分には大きな爪痕が残るような、 いや、それどころか鋭利な刃物で攻撃された刺し傷となった可能性がある―――そんな気がし てならないのだ。 更に、夏美ははっきりと自覚する。 怖いのだ。 ギロロの想い人が誰であるか、知るのが怖いのだ。 だったら何故、あのような質問をぶつけてしまったのだろう。 恐らくは、自分が本当に知りたい事項は別のところにあったのではないか。そんな気がしてな らない。例えそれが、彼の真意を窺い知ることが相当難儀であったにせよ、だ。 そこまで思考を燻らした、すぐ後。 素早くギロロの右手が動く。次の瞬間には、煙を上げる落ち葉の山の下層から、見事に焼き 上がった薩摩芋がひとつ、串に深々と刺されて姿を現した。 至極自然な動作で、彼がそれを夏美に差し出す。 「そら、頃合だ」 いつもの展開。 しかし今の彼女にとっては、一層のありがたい緩和剤。 「・・・ありがと」 安息をそのまま表に出したような穏やかな笑みで、夏美が受け取る。 食欲を刺激する甘い香りが鼻腔に流れ込み、嫌が応にも期待が高まった。 だが、次の瞬間。 ブワッ、と叩き付けるような突風が、荒々しく庭を走り抜ける。それは焚き火のすぐ側も暴れ馬 の如く駆け、未だ炎を立ち上げている枯葉の塊を容赦なく蹴った。 いきなり、夏美の眼前に火の粉を纏った落葉が数枚噴き上げられる。 ハッ、と息を止め、瞼を堅く閉じた。 暫しの、間。 いつまで経っても火傷を及ぼす感覚が来ない。 そろり、と目を開いてみる。 そこには、何と。 端から煙を燻らせている三枚の葉を、見事に貫いた鉄串。 右手でそれを持って、ゆっくりとこちらを向くギロロの姿。 「あ・・・」 「大丈夫か、夏美」 彼の台詞と、優しさを包括した眼差し。 ドクン、と心臓が一際大きく跳ねる。 脈動は一気に加速を始め、頬がカアッと熱を持つ。ギロロの振る舞いが、掛けてくれた言葉 が、どこまでも深遠な瞳が―――自分の一番奥底にある中心核を鮮やかに射抜いた。 驚くくらい速くなる鼓動に、夏美は激しく戸惑う。 咄嗟に視線を外して俯く。そして手に握られた串に刺さった薩摩芋を、若干覚束ない仕草で食 べ始める。 ギロロは先ほど仕留めた葉を焚き火に戻し、中にあるもう一本を転がしてみた。 そして幾許かの時間が過ぎ。 頭上に舞ってきた別の枯葉を視界に留め、彼が言う。 「風が出てきたな。それに、少し冷えてきた」 夏美も一瞬空に目をやる。それから、食べ終わった芋の皮を炎の中に放り込み、ブロックから 腰を浮かせながら口を開いた。 「・・・ご馳走様。部屋、戻るね」 対してギロロは、傍らに用意していた新聞紙を取り、焦げた白煙の匂い漂う煤の底の方から 焼き芋を串で取り出す。それを八つ折りにした紙に乗せて彼女に差し出す。 「持っていけ。まだ夕食までは間がある筈だろう」 「うん・・・ありがと」 柔らかい笑顔で、夏美は両手で受け取った。リビングの戸口に足先を向けて、何歩か進んで みる。 だが彼女は突然立ち止まり、振り向いて再び視線を投げた。 「・・・ねえ、ギロロ」 「何だ？」 小さな赤い身体が動き、訝し気にこちらに目を向けて反応する。 夏美は、じっ、とその眼差しに自分のを絡め、呟くように問いを発した。 「アンタって、侵略者よね」 「は？」 ギロロの白目の割合が増え、ここぞとばかりに疑念を発散している。 何を今更、と言いた気な雰囲気。 「進んでるの？ 侵略」 それでも彼女は、改めて別項目の内容で質す。 すると、ふう、とはっきりと判る音量で嘆息を漏らし、ギロロが軽く頭を振って今まで蓄積した懸 念を前面に押し出して語り始めた。 「おおよそ解ってるかと思ってたが・・・ケロロの奴があんな感じだ。ガンプラに現を抜かすばか りで、ペコポン侵略計画は進捗状況ゼロに等しい。まるでガンプラが任務とでも言わんばかり だ。何しにペコポンに来たんだか解らん。作戦も毎回・・・」 「じゃなくってギロロ、アンタ自身のこと」 突然飛び込んだ彼女の言葉に、彼は唖然としてしまう。 「・・・何？」 何を訊きたいのか理解出来ない、と繋がりそうな台詞。 それを見て穏やかな笑顔を浮かべて、夏美ははっきりと言う。 「ギロロだけだったらかなり進んでるよ、侵略」 きょとん、とした表情のままで動かないギロロにもう一度微笑んで、彼女は背を向けて建屋の 中に入っていった。そして階段を上がって自室の扉を開けて、後ろ手で閉めた後に学習机に近 寄り、身体を椅子に預ける。 新聞紙に包まれた焼き芋を卓上に置き、左手で頬杖をついて考察を開始した。 先ほどギロロに質問した台詞の数々と、それに対する答え。得られたものもあれば、結局拒ま れたものもある。 彼の想い人に関しては、これ以上詮索することを止めようと思う。 何処の誰かは知らない方がいい、と既に結論付けていたし、第一に知ることで自分自身に計 り得ない衝撃が与えられると推測されるからだ。 そして、どうしてそんなことになるのかも―――理解した。 （・・・何か・・・判っちゃった・・・あたしの気持ち） それは、今日生まれた感情ではない。 ずっと前からあったのだ。心の上部から見ても存在すら確認出来なかったが、間違いなく自分 の裡に据えられていたのだ。赤く脈打ち、脳内と心理の深層部まで達するほど巨大な物が、今 さっき中心核を狙撃されて、完全に目覚めたらしい。 夏美の頬が、改めて薄紅色に染まる。 ああ、何という気持ちか。 心の琴線を弦楽器のように弾き、暖かい響きをもたらす感情。 時には荒々しく、時には何より穏やかに打ち寄せる波の如く。 そして彼女は、机にある焼き芋を右手の人差し指で揺らす。まるで達磨のような曲線と輪郭を 備えたそれが、少し動いて再び停まる。 脳裏にしっかりと描かれた彼の姿に、夏美は気持ちを寄り掛からせてみた。 それから、いくつかの疑問が湧いて出て、彼女は胸の中で反芻する。 何故、いつも自分を護ってくれるのか。 何故、いつも気に掛けてくれる行動をするのか。 何故、いつも自分にとって嬉しい行動をしてくれるのか。 本当に聞きたかったのは、これらの回答。 いずれまた機会があるやも知れない。その時は何者も恐れることなく質問が出来たらいいな、 と心の片隅で切望する。 ふとベランダの外に目をやれば、庭から上がる煙が霞んでいた。 そろそろ彼が焚き火を終えたのだろう。 椅子を少し回して立ち、サッシ窓に近寄る。そして最早ほとんど見えなくなった白煙をガラス越 しに眺め、思考全体に溢れ返っている赤褐色の異星人に向けて言葉を投げた。 （ねぇギロロ・・・） もう、自分の気持ちは確定的なものになっている。 遂に彼女が―――その問いを心に刻む。 （あたし・・・アンタを想ってていいの？） 階下にいるであろう彼に、それは届いていない。 今は、届いていない。 この日。 感情を自覚した、この日。 絶対に消えない印をもって、夏美はギロロへの気持ちを刻み込んだのだった。 |
