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片割れの月が、煌々と街に光を降らせる。
宵っ張りの頃に見上げた位置より、今は天の頂を越えて傾き始めている。 日向家の二階のベランダでそれを凝視していたギロロは、長い溜め息を吐いた。今の時間 は、家屋の何処にも電灯は点いていない。背後の彼女の部屋からも、人工の灯火は漏れては いない。 今日の昼間、突然に時空の歪みにテントごと飲み込まれ、彼と夏美は砂漠地帯の真ん中に放 り出された。実際には西澤家の広大な敷地の外れに転送されたのだが、そこの護衛ロボットに 攻撃され、愛用していた野営テントは破壊されてしまったのだ。そしてケロロたちの救助で何と か戻ってこれたのが、ほんの一時間ほど前の出来事。 新しい天幕は用意していなかった為、彼は軒下辺りで眠るつもりだった。数多くの戦場を渡り 歩いた経験がある為、何処でも休息を取れる体質だからだ。 しかしこれは、夏美によって却下される。更に彼女は、気になって落ち着かないから一緒の部 屋で寝てくれ、と告げた。逆にこれは、全身が一層真っ赤になった彼に断られる。そして押し問 答の末、今はこうして彼女の部屋のベランダにいるという次第だ。 砂漠での一件が、未だに自分の身体の血を震わせていた。 今晩は簡単に眠れそうにない。 ここにいてから幾度目かの嘆息をついた、その時。 背中からカラカラとサッシを開ける音がする。周囲に警戒するように、押し殺した調子でそれが 聞こえ、振り向くとカーテンを片側に寄せてこちらを見詰めるパジャマ姿の夏美の姿があった。 ギロロはその視線におのれのを重ね、真っ直ぐに見返す。 気のせいか、彼女の瞳が潤んでいるような気がする。 「どうした、夏美」 少し弾み始めた鼓動を覚られまいと、声質を抑えて名を呼ぶ。 夏美は両膝を折って彼の眼前に屈み、こちらのすぐ前に顔を寄せてきた。 「ちょっと・・・いいかな？」 甘えたような、脳髄に緩やかに染み込む声色。 ゴクリ、と唾を飲み、彼はその艶やかな言葉に緊張を覚える。いつもはツインテールに纏めた 彼女の髪は、現在は解かれて下がり、なだらかに波打つ形状を成していた。幾度か目の当たり にしていて慣れている筈なのだが、何故かいつも以上に艶めしい。 スッ、と夏美が立ち、揺るぎない視線を彼に注ぐ。 中に入って、という無言の依頼。 ギロロは微かに震える脚に力をいれ、導かれるままにサッシを縁を跨ぐ。そのまま部屋の中央 に進むと、背後の彼女が窓を閉じて施錠する音が耳に届いた。 蛍光灯も点けず、カーテンを半分開け放ったここは、蒼白い光の奔流の空間。 そして夏美は、先ほどまで身を横たえていたと思われるベッドに腰を下ろす。 一挙手一投足を見詰めていたギロロが、それを確認して彼女の眼前に立つ。 「眠れんのか・・・？」 「うん・・・」 物憂げな雰囲気で、一度だけ頷いて返事をする。 ふう、と息をついた彼が、真っ直ぐに目線を投げて言った。 「まあ、あれだけの目に遭ったんだ。すぐには気も落ち着かんだろう」 「それとは・・・ちょっと違うの・・・」 その言葉に、ギロロの目が怪訝なものになる。 こちらに向ける夏美の視線は、今までにないくらい切な気で崩れ落ちそうだ。 「ねえ、ギロロ・・・さっき砂漠で、あたしを『護る』って言ったよね？」 「あ・・・ああ」 「『元の世界に帰してやる』とも言ったよね？」 彼女の眼差しに、徐々に胸の裡が苦くなり始めるのを感じる。それから彼は目線を外し、焦点 をぼかしたままで俯いて肯定した。 「ああ」 すると。 胸の遥か奥から搾り出すような、苦しそうな喘ぎにも似た声で夏美が―――その問いを発し た。 「・・・じゃあ何で・・・何で・・・何で敵に突っ込んでいくような真似をしたの？」 ハッ、とギロロが顔を上げ、思わず彼女を見詰める。 想像すらしていなかった、口調。 更に夏美の唇が動く。声質はまったく変化がない。 「敵じゃなくてボケガエルたちが救けに来てたんだから良かったケド・・・あれが本当に敵 で・・・あたしたちを殺そうとしてたら・・・ギロロ死んでたかも知れないんだよ？」 彼はそれに対し、フッ、と短く息を継ぎ、さも当然な論理を語るが如く、彼女に据えた視線を固 めて言葉を繋げる。 「確かにな。俺は戦士だから戦いに身を置く以上そうなることも・・・」 「何が戦士よ！ ふざけないで！」 怒声。 ギロロは自分の心象に亀裂が走るのを感じる。おのれの誇りに鉈を振り下ろされたような、胃 の辺りがチリッと傷む感触が全身を駆けた。 返す刀で、彼は声を荒げる。 「ふざけてなどいない！」 「ふざけてるじゃない！ 『護る』ってのは嘘なの!?」 まったく怯まず、夏美は疑念を叩き付けてくる。 最早退くも出来ない状況で、ギロロが自分の深層にある熱い塊を言語で表現した。 「嘘じゃない！ 俺は本気でお前を護ると・・・」 「ギロロが死んだら誰があたしを護ってくれるのよ！」 強烈な、一撃。 それは、今日の事件とそれに於いての行動、そして過去に彼女に対して執ってきた言動との 大きな矛盾を晒し出していたのだ。 彼は沈黙する。 しかし情け容赦なく、追撃は絨毯爆撃の如く繰り広げられた。 「敵に突っ込んで戦死して、ええそれはカッコいいでしょうよ。誰もが認めるわよ誰もが感動す るわよ。立派な戦士としてずっと語り継がれるでしょうよ！」 夏美の下瞼に、大量の涙が溜まり始める。 それは震える唇に同調したかのように、頬を伝い、顎に流れ、次々に溢れ出した挙句に重力 に従って落下し、膝の上に置かれた彼女のたおやかな両手の甲を濡らす。 尚も、激しい痛みを覚えている口調で、夏美は言葉を紡ぐ。 「でもね・・・遺されたあたしはどうなるワケ？ 誰がこれからあたしを護ってくれるの？・・・目 の前でアンタが命を落とすトコ見せられて・・・あたしが心穏やかにハイソウデスカ、ヨカッタネっ て思って暮らせると思った？ 軽く見ないでよ。馬鹿にしないでよ。今まで散々あたしを庇ってく れて、護ってくれて・・・最後の最後に自己満足で完結して終わり!? 冗談じゃないわよ・・・そん な簡単にあたしを切り捨てたりしないでよっ！」 「切り捨てる？ 俺が夏美を？ それこそ冗談じゃない」 「じゃあ何だったのよ！ あんな無茶して！」 湿り切った大声が、彼に降り注ぐ。 再度、ギロロは反撃を封印される。 「自分が生きるつもりあったの!?」 夏美の一言一言が、彼の最も脆弱な部分に徹底的な打撃を加えていた。 一転して彼女が、嗚咽を惜しみなく詰め込んだ声色で続ける。 「・・・一瞬でも、アンタが消える、って思っただけでこんだけ苦しいのよ・・・本当にもしギロロ が・・・って・・・考えたくないケド考えちゃうのよ・・・」 涙腺から弾ける透明な滴は、まるで滝のようだ。 そして―――夏美が、その言葉を口にする。 「だからもうお願い・・・お願いだから・・・あんな無茶しないで！」 「夏美・・・」 「一緒に生きて帰ることを考えてよ！」 魂の中心から燦然と放たれる、至上の叫び。 ギロロの脳髄が真空と化し、ただただ彼女の悲痛な言葉の数々が乱舞する。 項垂れ、目の焦点を遥か遠くに定め、彼は凍結した。 何という、ことだ。 かつてより自分の誇りとしてきた堅い意志が、彼女の為に良かれとしてきた信念に、行動に、 論理に―――爆雷の如き衝撃を受け、瞬時にして猛烈な勢いで亀裂が走った。 更に降りてきたのは、夏美に凄まじい苦痛を与えたという事実。 茫然と意識を手放しそうになりながら、ギロロは呟く。 「・・・俺は・・・ただ・・・」 それ以上、台詞が繋がらない。 ふたりはそれきり、幾許かの時間を向かい合ったまま動けずにいた。 どれほどそうしていたか。 夏美の両腕が伸ばされ、気配に気付いたギロロの両脇を抱え上げ、驚きと状況に思わず顔を 染める彼に構わず、自分の膝の上に彼を立たせた。左右の手は、赤い異星人の脇腹に添えた ままだ。 いつもであれば全身茹ったようになって、挙句に湯気まで噴く筈である。しかしギロロは、眼前 の彼女の泣き腫らした瞼を見た途端、恐ろしいほど冷静になっていくのを感じていた。 自然と、彼の右手が夏美の頬に触れる。 ゆっくりと手の甲で、未だ迸り続ける温かい滴を拭い取った。 「すまない、夏美・・・お前を苦しめるつもりはなかった・・・」 深く、何より深い透明な声。 「お前を救けようとして・・・お前を苦しめてては世話ないな・・・」 自嘲だが、逆におのれを断罪する鋭い言葉。 夏美はほんの僅か微笑み、先ほどの悲痛な声色とは打って変わった優しくほのかな口調で、 ギロロの瞳に真っ直ぐに自分の眼差しを投げ込んで囁く。 「だってさ、あたし・・・ギロロが救けに来てくれる度に・・・どうしようもないくらい嬉しいんだ よ・・・ギロロの姿を見た瞬間、泣きたくなるくらいホッとするんだよ・・・」 穏やかに紡がれている想いが、彼女から溢れていた。 ギロロの胸に、ポウ、とひとつの灯火が燈る。そして涙を拭いていた右甲を翻し、掌を夏美の 左頬にピタリと当てて添える。 互いの視線を固く絡ませたまま、彼が口を開く。 「お前を切り捨てるつもりなど微塵もない・・・むしろその逆だ・・・」 「・・・うん・・・解ってる・・・ギロロがそうじゃないことは解ってる・・・解ってるケド・・・」 すると彼女は頭を垂れ、暫く沈黙に入る。 数回の瞬きを繰り返したギロロの眼前で、夏美は長い、長い溜め息を吐いて、ゆっくりと顔を 元に戻して再び目を向け言葉を漏らした。 「あたし・・・すっごく我儘なコトばっか言ってるね・・・ギロロを困らせるつもりなんてないの に・・・散々救けてもらって・・・挙句に文句言ってる・・・あたし・・・酷いよね・・・」 今度は、彼女が自虐の色を醸し出す。 喘ぐような、切ない声質。 何度目かの潤みが夏美の下瞼に蓄積し始めた矢先、その台詞が転がり落ちそうになった。 「ギロロ・・・ごめ・・・」 「よせ。俺に謝るのは禁止と言った筈だ」 直後。 きょとん、と両眼を見開いて夏美は彼を凝視する。 一転、プッ、と軽く噴き出す。そして彼女の表情は鮮やかに融け、可笑しそうに目尻を下げな がら口許を解いて愉快とばかりに言った。 「やだぁ、それ、まだ禁止だったの？」 「ああ。これからもずっと禁止だ」 対してギロロも、さも楽しそうな口調で台詞を繋げ、右手の親指を立てる。 更なる言動に、破顔一笑。 ふたりは、瞬時に取り巻いた暖かい雰囲気の中、久々に戻った笑顔を互いに見詰める。 それまでの重苦しい空気を一瞬にして消散させた会話の余韻に、夏美とギロロは全身を浸か らせて、暫くは言葉を交さずに眼差しだけを絡ませ続けた。 幾許かの、後。 穏やかさを纏った彼女が、静かに口を開く。 「我儘ついでに、約束してほしいんだけど」 「約束？」 思い掛けない台詞に反応し、ギロロは突発的に単語を復唱する。 一呼吸置いてから、夏美が噛み締めるようにその言葉を囁いた。 「あたしの為に命を懸けない、ってこと」 柔らかな声色。 だが、内面に激しい想いを包括していることが判る。 「あたしの為だ、って言うんなら・・・生き延びることを懸けてよ。命懸けとか死を懸けて、は絶 対に嫌。あたしの為に生き延びることを約束してくれる？」 そう言うと、夏美は揺るぎない真っ直ぐな視線を彼に注ぐ。微塵も不純物が混じっていない、 深遠且つ透明な気持ちがそれに乗って、緩やかにギロロの体内に流れ込んでいった。 それらは彼の裡にある最も熱を持つ場所に辿り着き、そこかしこに融合していく。 やがて、ふうう、と長い吐息を漏らし、返答する。 「・・・解った。約束する」 「じゃあ、指切りして」 「指切り？ 何だそれは」 何事かと顔を上げたギロロの目の前で、にこっ、と夏美が微笑む。 「右手、出して・・・そう、それでこうやって、小指を結んで・・・」 「なっ、ななな・・・」 思いも寄らない彼女の行動に、一気に身体全体が朱に染まって放熱した。そのまま何も出来 ずに凝固し、彼は身動ぎも不可能となって、ひたすら夏美の顔だけを見詰める。 互いの右手小指が固く結合した状態で、彼女が右腕を上下に振り始めた。 「じゃあ、いくね・・・ゆーびきーりげんまん、ウソついたら針千本のーますっ！」 「針千本だとぉ！」 何という、約束の儀か。 驚きの余り、ギロロは大声を出してしまう。 「ペコポンにはそんな恐ろしい刑罰があるのか！ 下手な拷問よりも惨いな」 「もう、違うよギロロってば。例えなの」 その反応に夏美は、真剣に面白いと言いた気にコロコロと咽喉の奥を鳴らす。 「でもねー、ギロロにはホントに用意しておこうかなぁ。針千本」 悪戯っぽい、またくすぐったい意地悪さを表現した、甘い口調。 ビクッ、と彼の肩が跳ね、おずおずと目線を伏せる。しかしすぐに顔を上げ、軽い笑みを口許に 浮かべて言葉を返した。 「そうされんようにするさ。だがお前との約束を破るようなら、俺もそれまでだ。如何な刑罰を 下されようが、それは当然のこととなるからな」 「大丈夫、ギロロのこと信じてるから。用意はしないよ。安心して・・・そしてね、最後にこうやる の・・・ゆーび切った！」 思い切り右腕が振り下ろされ、勢いでふたりの小指が離れる。 ギロロは眼前に自分の小指を翳し、暫く凝視した。 夏美の温もりが未だに残り、今も激しい熱を帯びているようだ。 そしてゆっくりと息を継いだ彼女が、言葉を差し出す。 「指切りはこれで終わり。約束したからね、ギロロ」 「ああ・・・約束だ」 再び、宙で視線が絡み合う。 もうふたりの間には、暗い澱みも苦痛を覚える雰囲気も存在しない。 ただただ、胸の裡に秘めた温かさを表情に出していたのだった。 やがて。 ギロロの身体を床に降ろし、夏美が居住まいを正して言う。 「これで安心して眠れそうよ・・・ありがとね、ギロロ・・・」 「礼には及ばん。明日も学校があるのだろう？ 眠れ、夏美」 「うん・・・おやすみ・・・」 そして彼女が、ゆっくりとした動作で身体をベッドに横たえる。 薄掛けの布団を引き寄せて身体を覆い、傍らに立つ彼を見る為に左向きになった。 するとギロロは、軽々と寝具の縁に飛び乗り、極自然な動きで彼女の肩口まで薄掛けを引っ 張って被せる。それに対して柔和な微笑を浮かべる夏美の目の前で、彼は腰を下ろして胡坐を 組む。 暫くの間、彼女はそのままこちらに目線を向けていたが、やがて緩和された上瞼が閉じられ、 遂に一定の間隔の寝息を立て始めた。 その様子を片時も目を離さず、彼は見詰める。 どれくらいかそうした後、名残惜しそうに床に降り、ベランダに近付く。開錠してカーテンを元に 戻して、音を殺しながらサッシを開け、外に出て後ろ手で閉め、直後に崩れ落ちるようにその場 に座り込む。 月光の蒼白さが、今は温かく感じる。 ガラスに寄り掛かって身動ぎもせず、真っ直ぐにギロロは月を見上げた。 先ほどまで交された夏美との言葉の遣り取りが反芻され、何度も噛み締められ、彼女の想い の端々から放たれた自分への滾りが容赦なく流れ込む。 今日はっきりと、告げられたこと。 夏美は、自分が生きることを望んでくれている。 今まで戦士として朽ち果てることを当然と考えていた自分に、生きて、と言ってくれた。 自分に、生き延びて、と言ってくれた。 そう。 自分は、今日。 生きることを許可されたのだ。 最愛の女性に、生きてほしい、と願いを託されたのだ。 生き続けることを許されたのだ。 途端。 ギロロの瞳の中の月が、ぼやけて霞む。 彼は、涙を浮かべていた。 鮮やかに身体の内部全体に投影された夏美の姿が、かつてないくらいの色彩を持って浮か び上がる。そしてそれは、彼女への感情のすべてを想像もつかない深度まで押し下げ、ギロロ の心象をひとつの塊に形成する効果となった。 咽喉の奥から、何かが激しく涙腺を殴打し始める。 ポタリ、ポタリ、と美しい滴が彼の胸元に落下していた。 やがて思い切り両目を固く閉じ、ギロロは心の裡で愛しき者の名を呼ぶ。 （・・・夏・・・美ッ・・・） そのまま、泣いた。 ただひたすら、泣き続けた。 嬉しくて、ありがたくて、ありがたくて。 この夜、ギロロの心は純な光に満ち溢れ、遥かな高みへと昇華した。 ただ天空の片割れの月がそれを見守り、蒼白く優しく、無限の慈悲を持った大きな翼で彼を包 み込んでいたのだった。 |
