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落日が寂寞を告げていた、あの時。
勢いを増して遠ざかる列車のデッキに立つ彼に、その台詞が飛ぶ。 「あたし、宇宙人となんか仲良くなれないって思ってた！ でもあたし！ ギロロのこと が・・・！」 それ以上、続けられなかった言葉。 感情が臨界を超えて溢れ、最後の単語が構成出来なかった。 やがて宙に消えていく車両が気配を消した後、ホームの端で糸が切れたように崩れ、膝を付 いて彼女はただただしゃくり上げていたのだった。 風が窓を打つ、震えた音が耳に届く。 机に突っ伏していた夏美は、それを合図にしたかのようにノロノロと身体を起こした。彼女のツ インテールに結わえられた赤い髪が、その反動で後方に揺らぐ。 どうやら、少しの時間だが寝入ってしまったらしい。今は何時か、卓上の片隅にある置き時計 に目をやろうとする。だが動かした視線の範囲内に、自分の右手に納めたままの封筒が飛び込 んできた。 途端、彼女の息が詰まる。 昨日の夕方にこの惑星を去った、彼の手紙。 そして夏美の喉の奥が幾度目かの痛みを生み、涙腺は刺激を必死に堪える。 この手紙を読み返し、もう何度泣いただろうか。銀河鉄道の列車がふたりの距離を遠ざけた 昨晩から、おおよそ二十時間くらいしか経っていまい。だが彼女は、その間に繰り返し繰り返し 読み直しては、終える度に頬に透明な滴を伝わせていた。 夏美は自分自身、何故こんなに悲しい想いを抱かねばならないか理解していない。 彼の直筆の、別離に際して語った文を読む度に胸が締め付けられて涙し、それでも暫くすると 再び読み直してしまう自分が解らない。 ただ漠然と脳内に空白と虚無が舞い踊り、その間隙をぬってその姿―――赤褐色の肌をした 小柄な異星人である彼の顔が、背中が、声が浮かび上がっては沈む動きを続けていた。 今日が日曜で良かった、と思える。とてもこの状態では学友に会えない。 今日の家事当番が自分でなくてよかった、と思える。家族や友人たちの前では一度、割り切 ったと思わせる表情を向けているが、その実は安定には程遠い心理状態だ。このままでは日常 生活すら危うい感じさえある。 夏美はまたもや泣きそうになるのをグッと我慢し、自分に問い掛けた。 何故これほどまでに苦しいのか。 軍人である彼が所属を移ることなど、当然あり得ることなのは納得がいく。だが理屈では解っ ていても、感情が治まらない。しかも突然に雷の直撃を受けたのような状態の為、自分に言い 聞かせる時間など皆無だったから尚更だ。 しかし―――それ以外にも、自分の胸を締め付ける何かが存在する。 彼がここを去ることで激しく感じた、得体の知れない感情。 その正体を確かめようとする気力は、今の自分にはない。夏美はただただ、浮沈を繰り返す 意識と無限回廊に嵌まり込んでしまったような眩暈に翻弄され続けていたのだ。 その時、突然。 やや荒っぽく、自室の扉が叩かれる。 「姉ちゃん！ 姉ちゃんってば！」 空かさず飛び込んでくる、声。 弟の冬樹だ。口調から察するに、かなり慌てている様子が窺える。 昼食は済ましている筈だ、と漫然と考えながら、彼女は緩慢な動作で手紙を机の引き出しに 仕舞う。それから扉に近寄り、これを開けて弟の姿を視界に入れる。 眼前の彼は、少し息が上がっていた。表情は若干険しい。 「何よ冬樹・・・何かあったの？」 「帰ってきたんだよ！ 伍長が！ 地下基地にいるよ！」 言いながら弟の顔に、安堵を表現する笑顔が浮かんでいた。 「え・・・？」 一瞬の空白。 冬樹の台詞が、脳内に楔を打ち込む。 まさか。 夏美は部屋から走り出て、階段を駆け下りる。更に階段下の物置に入り、床の扉を思い切り 開けて身体をその中に滑り込ませた。 傍らにある扉を勢いよく手前に引き、中に誰がいるのか確認もせずに部屋を横切り、重々しく 鎮座する冷蔵庫を開け放って何の躊躇いもなく両脚を宙に踊らす。すぐに銀色の金属質で覆わ れた通路に立ち、走りを止めることなく奥へと進む。 何故、急に戻ってきたのか。 何が彼にあったというのか。 いや、今は理由はどうでもいい。話してもらえば判ることだから。 ただ―――逢いたい。顔を見たい。 疑問と質問は山ほどあるが、まずは逢って、すべてはそれからだ。 直後。 ズドン、という腹部に響く重低音と空気を震わす振動が辺りを覆い尽くす。程なくそれは長い残 響を含みつつ、彼女の周囲を緩やかに通り過ぎていった。更に、金属の香りを包括した硝煙の 匂いが通路の曲がり角の先から漂ってきて、夏美の鼻腔に届いた。 すぐに理解する。 ああ、本当だ。帰ってきたんだ。 気が付けば多くの時間を彼の近くで過ごしていたことによる、記憶。 それと寸分違わぬ一致を見せた現象が、自然と安心感を湧き立たせる。 夏美はそれによって、自分の表情が穏やかに緩んでいくのを強く実感していた。 そして、異星人特有の足音が徐々にこちらに近付いてきて、直角に成された通路を曲がり、 何やら腹立たし気に独り言を呟き、体躯とさして変わらない大きなリュックを担いだその男性が ―――彼女の眼前に現れる。 「・・・ったく、奴の馬鹿さ加減にはほとほと愛想が尽き・・・」 彼はそう言いながら身体の向きを変え、顔を上げた。 途端、全身を硬直させて凝固する。 いつもは黒い瞳孔がはっきりしている吊り目が、驚きで白い部分が多くなっている。焦茶色の 軍帽も、その額にある骸骨の印も、顔の左側を斜に横切る傷跡も、そして何より赤褐色の肌の 色も―――彼女の裡から無限の安堵を引き出す、ひとつひとつの条件だった。 やがて茫然としつつも、身の丈が自分の腰ほどにも満たない彼が口を開く。 「・・・な・・・夏美・・・」 自分の名を呼ぶ、低音の声。 まるで聴覚器官を通さずに脳髄に直接響いてくるような、魅力を覚える声。 夏美は、今まであった憂鬱などを微塵も感じさせない、柔らかな笑みを湛える。 しかし男性は、申し訳がなさそうに俯き、更に言葉を続けて口籠もった。 「あ・・・あの・・・だな・・・」 「・・・帰ってきたら、まず何て言うんだっけ？」 意外な一言だ、と彼は感じたに違いない。恐らく頭ごなしに怒鳴られるか、延々と文句を並べ 立てられる覚悟があったと思われる。だが今の言葉は、そのいずれでもない。 そして、肩の力が抜けたような長めの溜め息を吐き、彼女を見上げて言った。 「・・・ただいま、夏美」 「・・・お帰り、ギロロ」 噛み締めるような、心に刻むような再会の辞。 もう一度視線を外して顔を伏せた彼―――ギロロは、喋り辛そうに言葉を繋げた。 「すまんが・・・また世話になる」 「うん」 地下基地の通路を戻り、一階へ昇り、リビングを通ってそのままふたりは庭に出る。 ギロロが背の荷を降ろし、テキパキと野営テントを組み立てて様々な荷物を中に入れていく。 そうしながら彼は、昨夜から今日に掛けての経緯を話し続けた。 ケロン星へ向かう途中の列車の中で軍本部から通信が入ってきて、今回の辞令が一ヶ月も 前に出されたもので、既に転属も昇格もすべて無効とされてしまったこと。故郷への帰途を中止 して、途中の銀河鉄道の分岐点惑星に寄り、軍本部の計らいで恒星間移動に使われる転移装 置を借りて帰ってきたこと。辞令を受け取っていてすっかり忘れていたのはケロロで、あまりの 顛末に怒髪天を突く勢いでバズーカで彼を黒焦げにしたこと。 多少声が上擦った調子で、ギロロは彼女に目を向けずに語る。 夏美は、そんな彼の一挙手一投足に視線を固定したまま、リビングの縁に座って時折頷きな がら耳を傾ける。 そしてテントが組み上がり、焚き火の跡の周りにブロックも並べられ、彼が立ち去る前と違わ ぬ風景が完成した。ふう、と息をついて両手を後ろに握り、漸くギロロも落ち着いた様子だ。 その背中に眼差しを注ぎ、夏美が言う。 「で、結局また、ここに戻って来たんだ」 「あ、ああ」 籠るような声色で返事をしてから、彼が振り向いて台詞を漏らす。 「ところで夏美、去り際に言ってた言葉なんだが・・・」 頬に人差し指を当て、目線を宙に浮かべて夏美は記憶を探る。 断片的に残る言葉のひとつひとつを手繰り寄せてはみたが、判別がつかない。 「・・・何て言ったんだっけ？」 「『私、ギロロのことが』の続きだ」 彼の発言に、ホームでの光景がゆっくりと脳裏に浮かび上がってきた。 途端、心が大きく揺らぐ。だが小一時間ほど前にあった激しい痛みは、既に彼がここに戻った ことで絶大な鎮静作用になったらしく、改めて覚えることはなかった。 夏美は奇妙なほど冷静に、単語を回想しては積み上げていく。 「ああ、あれね。『宇宙人となんか仲良くなれないって思ってたけど、あたし、ギロロのこと が・・・』」 「そう！ その続きだ！」 「・・・『あたし、ギロロのことが―――宇宙人じゃなくて外国人くらい身近に感じるようになっ た』って言いたかったの」 その直後。 「んなっ！」 ギロロは滑稽なほど顎を落とし、前身を白色化して固まる。 それは、まるで野球選手が打席に立って構えている時に、後方から頭目掛けてボールを叩き 付けられたような、あまりにも想定を度外視した発言だったに違いない。彼にとって期待してい た台詞とは遥かに掛け離れた、理解範囲に掠りもしない現象と言い切れよう。 だがギロロは、感情の上下に翻弄されて普段の沈着ぶりを欠いていたが故、現在の彼女の 不自然さには気が付いていなかった。 昨晩の出来事を回想し始めてから、夏美は自分をまったく見ずに話をしていたのだ。 視線を宙の何処かに飛ばし、台詞の続きを口にした時も抑揚に乏しい、淡々とした口調で語っ ている。言い終えても彼を視界に入れることなく、瞳を向ける先も訝しい。 「とにかく、これからもよろしくね、ギロロ」 そう言うと夏美は、立ち上がってギロロの横を通り、玄関方面へと移動する為に家の角を曲が って彼の姿が見えない位置まで歩く。 途端―――彼女の足が、停まる。 何故か向けられなかった視線が急速に緩み、途端に脳内に赤い残像が投影された。 （外国人くらい・・・） 改めて反芻される、単語。 空かさず夏美に降り掛かる、猛烈な違和感。 （・・・違う） 何度繰り返し思い起こしても拭えない、咽喉の奥深くにつかえた異様な感情に、彼女は頭を 左右に振る。 （そんな言葉じゃ・・・ない・・・もっと違うことを言いたかったんだ・・・） 幾度目かの、そして今度はあの時の感情に極めて近い状態で、ギロロを追って走ったホーム での光景が鮮明な映像として脳裏全面に投影された。 突き上げる気持ちが形骸化されずに分解され、口に出来なかった言葉。 そして別離の瞬間の激しい心理の津波と、今の彼女が同調を果たす。 ああ、これだ。この気持ちだ。間違いない。 でもこれは何なのだ。何と呼ぶべきなのだ。 即物的な楽しさや嬉しさで感じるような、解りやすい浮揚感ではない。 ありがちな悲しさや苦痛で受けるような、沈下し続ける寂寞さでもない。 今まで覚えたことがない、複雑な迷彩を隠し持っているような―――今の気持ち。 （・・・何？ 何なの？・・・わかんない・・・わかんないよ・・・） 答えが出ない。 夏美は両手を組んで胸に当て、きつく両目を閉じる。 はっきりしているのは、これがギロロと離れることで感じたということだ。 彼女はそのまま、今まで自分と彼に起こってきた経緯を思い起こし始めた。 最初の出逢いで、仕掛けられた罠をすべて突破して倒したこと。 あまりにも見事な出来栄えの焼き芋に感嘆し、それからも彼に作ってもらっていること。 事件が発生して自分が危機に陥った時に、何の躊躇もなく救けに来てくれて、おのれの何十 倍もある異形生物や敵に挑みかかっていく―――何よりも頼れ、見ただけで無限の安堵を覚え る赤い小さな体躯とその背中。 見せまいとしていた自分の心のささくれを見破られ、彼にだけ問われたこと。 いつかの戦闘時には、背中を預けてもらえたこと。 （ギロロ・・・） 心の裡に、脳内に、くっきりと姿が刻み込まれている。 気のせいか、薄く頬が染まって体温が僅かに上昇したみたいだ。同時に心臓の鼓動が力強く 大きくなる。浮かび上がる高揚感とはまったく違う、むしろ沼に飲み込まれていくような、地下深 くに落ちていく異様そのものの感覚すら存在する。 だが夏美は、不思議と嫌ではなかった。 むしろこの感情をもっと明確に知っておきたい、と考えていたのだ。 やがて。 ひゅう、と一陣の風が彼女の傍らを擦り抜け、枯葉を乱舞させている。 夏美は両の瞳を閉じたまま、至極当然の如くギロロの顔を思い浮かべる。 いずれも解答とならなかった中で、ひとつだけ判った事実。 彼への感情の中に今までとは別の温もりが生まれ出る、そんな予感がしていた。 それは夏美とギロロの、新しい物語の始まりを告げていた。 |
