|
初秋の香りが、日向家の庭に敷き詰められている。
まだ枯葉の舞う時期には早いが、それでも漂う空気は少し澄み始めていた。 午後もそれなりの時となった頃、ギロロの野営テントに夏美が訪れる。それはここ毎度の行事 になっており、ある日は焚き火の側で、ある日は天幕内で互いの時間を共有するが日課となっ ていたのだった。 今日も彼女が声を掛け、所在を確認してから自然な動作でテントの入り口を開ける。中で武器 の手入れをしていたギロロが、柔らかな表情になって迎えた。 既に私服に着替えた夏美は、手にしたステンレス製の水筒と、盆に乗せて運んできた皿を差 し出した。いつもとは違うそれを目の当たりにし、不思議そうな目線を彼は向ける。 「ハムサンド作ったんだけど、食べる？」 そう言った彼女が、自分との距離を狭めた場所に、ペタリ、と腰を下ろす。 僅かに頬を染めたギロロが、頷く。 「ああ、味見してやろう」 天幕の限られた空間で、手を伸ばせば簡単に触れられる位置でふたりは向かい合う。間に置 かれたのは、パンが乗ってラップを被された皿と、銀色の水筒、そして二個のアルミ製のマグカ ップ―――ひとつは彼が当初から持っていた物、もうひとつは夏美が持ち込んでここに常備して ある物、であった。 軽食と思しきそれは、胡麻を塗した丸型のパンに様々な具が挟んである。薄切りハムを多め に入れ、硬茹で卵や野菜、細切りのチーズらしい食材も見える。それが全部で四つ、小洒落た 陶器皿に肩を並べていた。 ラップを外してから、夏美は彼専用マグカップに水筒の中身を注ぐ。コポコポ、と音を立てて、 芳しい香りを思い切り放出する温かい紅茶がなみなみと満ちていく。流れるような動作でギロロ の前に置き、続いて自分用の器にも同様にし、盆に乗せてあった小袋の砂糖を混ぜ入れる。軽 くスプーンで掻き回してから、彼に目線を向けた。 行儀よくそれが終わるのを待っていたかのように顔を上げ、ギロロは彼女の眼差しをおのれ の瞳に差し込む。頬の辺りが熱を発するのが、はっきりと自覚出来る。 穏やかに微笑んでから、夏美が自分のマグカップを手に取って口を開いた。 「じゃ、食べましょ」 「ああ」 その言葉の後、ギロロはひとつのパンを掴み、齧り付く。 良い塩加減だ、と彼は思う。口内で噛み、舌の上で食材を転がす。それぞれが見事なまでの 調和を醸し出し、味付けに使われているらしい薄味のマヨネーズや辛子が高水準の演出を実行 していた。更に基礎となるパンの風味も、この上なくしっかりと腰を据えている。 「どう？ 味は？」 こちらが一口目を食道に送り込む頃を見計らって、彼女が問う。 軽く口許を緩め、ギロロは返答した。 「良い出来だ」 「ホント!? よかったー、サンドウィッチ滅多に作らないからどうかと思ったケド」 目を細め、満面の笑顔が夏美の表情となる。それから手にしたカップから紅茶を啜って、軽く 首を傾げて僅かに潤ったような艶やかな視線を彼に向けた。 二口目、三口目を頬張りながら、ギロロは彼女の瞳を直接見れずに目線を落とす。 間が持たないと判断し、自分のマグを持ち上げて飲み物を流し込んだ。 ただそのまま、幾許か過ぎる。 夏美は穏やかな笑みでギロロを見詰めて茶を口にし、ギロロは顔を伏せて夏美の持ってきた ハムサンドと茶を交互に食している。 驚くほど、ゆっくりと流れる時間。 会話は、ない。 ギロロは非常に奇妙な感覚に囚われ始めた。 これは、何と言って良いのか。 侵略する側と、侵略される側。 敵対している者同志が、あまりにも平静過ぎる時を共有している。 今までも何度も、本来この惑星に来た目的である“侵略作戦”を実行してきた。しかし現在、そ の結果が出るどころか、まるでこの地球への移住者以外の何物でもない暮らしではないか。確 かにケロロ主導の作戦は恐ろしいほど効果が乏しく、何が目的なのか疑問視すらしてしまう。 だが冷静に思考してみれば、進捗状況は今の生活の理由にはならない。敵対とするなら日向 家に居なくてもよいのだ。隊長が捕虜として拘束されている、という当初の状態が現在も続いて いるからだと自分に言い聞かせようとしても、説得力に欠ける。 しかも過去の作戦中、おのれが原因で潰した件がどれだけあろうか。 夏美に被害が及ぶと判った途端、ギロロは片っ端から中止に追い込んできた。 更にあろうことか―――彼女のことを身体を張って守護してきた。 これが敵対する相手に行うことか。 自己を決定的に支配する、強烈な矛盾。 だが。 その矛盾は、今の彼女との距離を産んだ。 自分の誇りも意志もすべてかなぐり捨ててしまえるような、温もりを育てた。 夏美の手製の軽食を食し、彼女と語らい、これ以上ないほどの暖かい微笑みを向けられる時 間がここにある。かつては様々な戦地を渡り歩き、敵味方を問わず震撼させた“戦場の赤い悪 魔”は、今や逃げ出せないほどの甘美極まりない想いを寄せる女性と、この惑星で過ごしている のだった。 正直、未だに葛藤は続いている。 本当にこのままでいいのか、と自問を繰り返している。 その答えは、確立する気配すらない。 だがギロロは、これでいい、と片側の意見に傾倒しつつあった。 酸鼻の臭いしかしない戦の世界とは一線を画している上、微温湯とも言い切って良いほどの 安穏としている日々だが、夏美の傍にいることが可能ならば何も問題はないだろう。 そこまで考えてから。 彼が顔を上げて、側の彼女に声を掛ける。 「夏美、ひとつ訊きたいことがある」 「何？ 改まって」 微笑を湛えたまま、夏美は首を傾げた。 軽く息を継いでから、ギロロは彼女にしっかりと視線を向けて質す。 「お前は・・・今の状況をどう思う？」 「え・・・？」 途端、夏美の頬が鮮やかな紅色を醸す。 やや大き目に瞳が開かれ、心なしか顔全体に熱気が拡がっている様子だ。 口の端がヒクリと動き、何かを言いた気な空気を散発し出した。しかし、次の言葉を上手く形成 するまでに至っていない。 漸く、あまりにもしどろもどろな口調で、彼女が答える。 「・・・え、えーと・・・そうねぇ・・・い・・・いいんじゃないかなぁ？」 固まった笑顔と共に発された、上擦って裏返りそうな声。 だがギロロはその雰囲気を意に介した風でもなく、ふっ、と短く息を漏らして応じた。 「そうか。お前もそう思うか」 「えっ？」 「本来は敵対する関係だ。侵略時に於ける、ある種の均衡か休戦状態とも言えるな」 その言葉の、僅か後。 夏美の表情が一変する。 笑顔と赤面があっと言う間に消散し、目線が伏せられる。手にしていたマグをシートの上に置 き、これ以上ないほどの悲しそうな眼差しを膝の上に落とす。眉を顰め、唇を軽く噛み、傍から 見れば顔色すら蒼く感じ取れた。 少しの沈黙でそれを確認したギロロは、訝し気に彼女に言葉を放る。 「・・・どうした？」 何が起こったのか、理解が出来ていない。 その眼前で夏美は、奥歯を食い縛ったように口許を結ぶ。そして焦点が何処にあるのかはっ きりしない視線を宙に浮かべて呟く。 「・・・何でもない・・・」 その台詞通りであるとは、誰が見ても信じ難い。 ギロロは心の裡がざわつくのを自覚した。氷塊が次々と増殖しているかのような、脳髄が一気 に冷却されて動きが鈍くなる悪寒が身体全体を支配し始める。 胸元と背中に、嫌な汗が染み出てきた。 彼が弾かれたような口調で、問う。 「気分でも悪いのか？」 「何でもないってば！」 即答された、怒気を含んだ言葉。 見開かれたギロロの両目に、怒りというよりも嘆きを纏わり付かせて俯く夏美の姿が映る。彼 女の瞳はまったくこちらには向けられず、足下に敷かれたシートにぼんやりと投げられているよ うだ。 彼の内面が、混乱と不理解でうろたえ出す。 自分の何らかの発言で、彼女の気分を甚だしく害したのは間違いなさそうだ。 しかし、どれが気に障ったのか解らない。ただ自分は、敵対する筈の間柄が特に大きな闘い もなく、不思議と平穏な共同生活をしていることへの意見を訊くつもりだったのだ。夏美からの 返答もそれに同調していると判断し、納得しておのれの考えを付け加えた。 どう思い起こしても、彼女の哀し気な表情の明答が出るまで至らない。 最早、思考を巡らせて座っているどころではない。 「夏美！」 名を呼んで、即座に立ち上がって真っ直ぐに彼女を見詰める。 ビクッ、と肩を跳ねさせ、驚いた様子で夏美は目をやや大きめに開いてこちらに向く。 「怒るなら怒ってくれ。文句なら甘んじて受けよう。だから、その・・・頼むから、そんな悲しそう な顔をしないでくれ・・・」 ひとつひとつ、丁寧に選んで繋がれる言葉。 そしてギロロが、申し訳なさそうに目線を伏せた。 途端。 ふうっ、と夏美の顔に微かな笑みが戻る。 瞬時に落ち着きを全身から放出してから、彼女は赤褐色の異星人の眼前までゆっくりと顔を 持っていく。唇は柔らかさを蘇らせ、少しだけ艶やかな彩を湛える。 甘酸っぱい香りが感じられる声色で、夏美が言う。 「怒ってないわ。それに、文句があるワケじゃないし。ただ・・・ちょっとムードが欲しかったかな ぁ、って思っただけ・・・」 「ムード？ それはどういう・・・のわぁっ！」 面を上げながら、突然ギロロが奇声を発した。即、顔全体が鮮やかな桃色を発色し、まるで一 本の棒でも貫かれたかのように身体を硬直させる。更に、頭頂から間欠泉の如き湯気が勢いよ く噴き上がった。 ふたりの顔の距離が、今までにないほど近かったからだ。 しかも、彼が俯いていた顔を上げた状態の現在、掌の間隔ほどの場所に互いの唇が位置して いる。 ギロロの極端な変化に、夏美は現状を顧み始める。そしていきなりの赤面の理由を導き出し、 目の前の軍人と同様に夕焼けと見紛うばかりに頬を真っ赤にさせ、慌てて上半身を起こす。 双方の心臓が、凄まじい高鳴りと激しい鼓動を起こし始める。 顔を赤らめたままのふたりが、目を逸らすことも出来ずに見詰め合う。 相手の瞳に縛られて、動けない。 暫くして、漸く。 夏美が固まっていた身体を緩め、ふうう、と長い溜め息をついてから口を開いた。 「・・・部屋・・・戻るね・・・」 あまりに体裁の悪い展開となった為か、場の打開を試みる。 今度はギロロが息を継ぐ番だった。未だに熱を持った身体は落ち着く気配が感じられないが、 取り敢えず一旦出直すことも重要であろう。 夏美も頬の赤みが取れている様子がないが、既に行動を起こし始めている。 「あ、ハムサンド、全部食べてね。お皿と水筒は後で取りに来るから、ね」 「わ、判った」 多少口調の端に覚束なさがあるが、ふたりは言葉を交わす。 それから夏美が、テントの出入り口の幕を左手で持ち上げて外に出ようとする。 ギロロの声が、彼女の背中に飛んだ。 「夏美」 「・・・何？」 振り返って視線を戻し、彼を凝視する。 すると彼が、改めて表情を硬く変化させ、顔一面を朱に染め上げて言葉を紡ぐ。 「・・・その・・・今日の、だな・・・美味かった・・・また作ってくれないか？」 言い終わって、彼女を見詰める。 そこには。 茫然として、何処にも落とすことなく眼差しを絡めてくる夏美がいた。 「・・・夏美？」 何の返答も反応もない状況に、訝しそうにギロロは名を口にしてみる。 僅かの間を空けた後、彼女の唇から―――温もりを持つ単語が零れ落ちた。 「初めて・・・」 「え？」 「また作ってって・・・ギロロにそんな風に言われたの・・・初めて・・・」 直後。 見る見る頬を綺麗な薄紅色に発色させて、夏美が座り込む。 両の下瞼に微かな潤いが宿り、ふるふる、と瞳が震える。 左右の掌を顔の両側に優しく当て、今まで以上の艶やかな微笑みを形成させた。 何という。 何という可愛らしい仕草と表情か。 更に、彼女が呟く。 「・・・嬉しい・・・すっごく嬉しいよ・・・ギロロ・・・」 耳にした瞬間、ゾクッ、とくるほどの気持ちよさを覚える口調。 今、ギロロは完全に動きと思考を束縛されてしまった。 ただただ、彼女の言動を脳裏に焼き付けている状態だったのだ。 どれほど何も出来なかったか。 夏美がやっと、紅潮の域から帰還を果たし、今度は静かな微笑を口許に浮かべる。視線は彼 から動かさず、ひたすら温和な雰囲気を向け続けていた。 やや地面に足が着いたかのように、ギロロが言葉を発する。 「いや、その・・・そういう訳だ・・・」 「ありがと！ また作るね！」 弾ける、嬉しそうな夏美の言葉。 そして満開となる笑顔。 目の当たりにした途端に、パアッ、とおのれの内部が光に満ち溢れる。 見事だ、と彼は感じた。 何と素晴らしい笑みだ、と彼は感じた。 自分の裡に燻って残っていた澱みも、霞みも、翳りも一気に雲霧消散となる凄まじい力が備 わっており、この瞬間、如何なく発揮されたのだ。 やがて幾許かが、過ぎ。 この場所には、部屋に戻るのを後回しにした夏美と、向かい合って座ったギロロが再び会話を 続ける姿が存在した。温かな空気に包まれて話題を提供し合いながら、時間を忘れて喋ること を楽しんでいたのだ。 それを行いながら、ギロロは思考する。 侵略者とか敵同志に拘るのは、止めることは出来ずとも抑えてみよう、と。 自分が多幸感を覚える今の暮らしを、もう少し続けてみたい、と。 そしてこの先、最終的に下すであろう結論。 夏美の為であれば。 夏美が幸せでいてくれれば。 夏美の笑顔が絶えないでいてくれるのなら。 おのれが生きてきて培った礎など、叩き壊しても構わない、と。 そして。 ギロロが、揺るぎない視線を夏美に差し出す。 夏美は正面から受け止め、にっこりと満面の笑みを開花させる。 ふたりの時間は、まだまだ続くのであった。 |
