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夜の帳が根付き、寒風は容赦を知らずカーテンの向こうの窓ガラスを殴打する。
夕食と入浴を済ませ、寝巻き姿になり綿入れを着込んだあさりは、自室の電気ストーブの電源 を入れて最も発熱量の高い設定にスウィッチを切り替えた。冷え切った空間が暖まるまでは暫 くの時間がかかるであろう。彼女は傍らのビーズクッションを引き寄せ、暖房器具の真正面に置 き、その上に座る。 両膝を腕で抱え込んで不動の体勢をとり、焦点の合わない目線を前に放り投げた。 帰宅してからも、夕方に耳にした潮からの台詞が離れない。 可愛い、と言われた。見とれてる、と言われた。 優しい口調。同時に注がれた熱い視線。 今、あさりを支配しているのは、幼い頃からずっと見てきた彼の姿と、共に行動した膨大な量 の思い出、そして数多の会話なのである。それが幾度も繰り返し差し替えられながら、彼女の 脳内で休憩時間なしの上映を続けていた。 その間隙をぬって、解答の出ない自問が浮かんで沈み、また浮かぶ。 自分にとって、潮はどういう存在なのだろうか。 昨日までは、最も頼りになる男性として想い続けてきた。彼女にとって非常に困難である勉学 を苦もなくこなす、尊敬に値する学力の持ち主―――そして幼稚園の時から一貫して、学級委 員長など常に集団のリーダーとして多くの級友たちを引っ張ってきて、高校に入学してからは風 紀委員と生徒会役員を兼任し、二年も終わりに近付いた現在に於いては生徒会長を務める。ま さに品行方正を絵に描いたような人物だ。殊に勉強の面に関して、あさりは絶対の信頼と依存 をしている。 無論、それだけではない。日頃の生活の細たる部分に至るまで、彼に頼りきっているのだ。自 分から潮を捜し、会いに行くのは至極当然の習慣とも言い切れる。また同じ時間を共有している と何かと安心出来て、心理的にも穏やかで落ち着ける雰囲気を味わえた。 様々な注意を言われ、指摘されたりもする。しかし口煩いと一時的に思ったにせよ、彼の言う ことに間違いはない。あさりはその言葉を一通り受け止め、例え不満が発生しようが実行するよ うに心掛けていたのだった。 事実が胸内を錯綜している中、ひとつの確定したことが転がり出る。 潮は、自分にとっての“母港”なのだ。 普段は大海を渡り歩く帆船が、安堵と休息を求めて戻ってくる場所。 だから如何なる状況であろうが彼に脚が向くし、最終的には一緒にいたいと願う。 しかし、今日。 その“母港”が動いたのだ。 海原に出向いて、逆に船を迎えにきたのである。 本音のところは、嬉しい。この上ない悦びを覚えている。彼の言葉ひとつひとつを思い起こす 度に胸元が急激に締め付けられ、両の頬が破裂しそうな熱を帯びる。 だが同時に、壮烈な不安が生じた。後方を振り返れば暴風雨を伴った黒雲の渦がすぐ傍まで 接近しているかの如き、現在の状況をことごとく滅してしまいそうな恐ろしさが産声を挙げたので ある。 心の淵に何度も押し寄せる波に翻弄されていた、矢先。 部屋の扉が軽やかに二回、叩かれた。 「あさり、まだ起きてる？ 入るわよ」 涼やかで芯の通った声が、向こう側から聞こえる。姉のタタミだ。 返事をしようと顔を上げるが、飽和した心理状態が影響してか、動作があまりにも遅い。のろ のろと身体を起こそうかとしているうちに、ドアが開いてその女性が入室してくる。 「ちょっと話してもいいかしら？」 颯爽とした機敏な流れで姿を現した彼女は、こちらを確認するや否や、扉を閉じながらその言 葉を投げた。少女が無言で頷き返すと、目線を外さないまま腰を床に下ろし、もうひとつのクッシ ョンを宛がう。 あさりの意識が少し明瞭になってきた。才色兼備という名に相応しいこの姉は、普段の振る舞 いからでも凛とした感覚が伝わってくる。自ずと、居住いを正してしまう。 「どーしたの、おねーちゃん」 「それはコッチの台詞よ。帰ってきてから何かオカシイわよ、あんた」 真っ直ぐに揺るがぬ眼差しを向け、タタミは鋭い口調で話す。 「今日、大磯くんとデートだったでしょ？ 彼と何かあったの？」 更に一歩踏み込んだ、質疑。 問いの途端、あさりを再び赤面が占領した。無数の再生を繰り返していた潮の台詞と映像が、 猛烈な勢いで自分の裡に復活してくる。 それでも彼女は、歯を食いしばって漸く事実を口にすることに成功した。 「組長に・・・可愛い、って言われた・・・」 一瞬、空気が停止する。 姉は眼鏡の奥の目を丸くして凝固したが、早々と現実に復帰する。 「へぇ！ 大磯くんが！ そう言ったの！ あらぁ、彼もそろそろ視力が落ちてきたのかしらね ぇ。わたしの行き着けのメガネ屋紹介しましょうか。それとも何か変なモノでも食べたのかも知 れないわね」 「組長そんなの食べないもん！」 歯を剥き出しにして、妹は丹田からの怒声を放つ。 対してタタミは怯んだ様子もなく、いつもの自然な言い回しで話を続けた。 「それにしても大磯くんがねぇ・・・ま、どういうつもりで言ったのか判らないけど、彼が言うから には嘘ではなさそうね。で、あんたはその割には嬉しそうじゃないけど？」 「いや、嬉しかったよ。嬉しかったけど・・・」 濁ったような口調へと転化していく彼女が、瞳を電気ストーブのオレンジ色の発熱体に向け て、そのまま視線を伏せる。そして微かな、消え入るかと思われるほどの音量で呟く。 「明日から組長と会った時どうすればいいか、判んない・・・それに・・・怖い・・・」 「怖い？」 思わず聞き返す。そうせざるを得なくなる、重厚な響きの言葉だった。 姉は眉をひそめて身を乗り出し、あさりの俯いた横顔を見詰める。 「だってあんた、ずっと前から大磯くん見てきたんでしょ？ 彼のこと一番に想ってきたんでし ょ？ この歳になってやっと彼の気持ちが聞けたのに、何で今更怖いなんて・・・」 今までの日常を家族として過ごしてきて、タタミは妹が如何なる思慕の念を抱き続けてきた か、誰よりも認知していた様子だ。だが現在の彼女が何を怖れているのか、考察し理由を見出 す術を失い、結論に辿り着けないらしい。 あさりは喘ぐかの如き素振りで、搾り出すように言葉をこぼしていく。 「何だか・・・今までの関係じゃなくなりそうで・・・どうなるか判んなくて・・・」 「は？ 何言ってんのよ。関係が変わるのは当たり前でしょ？ あんたは昔っから大磯くんベッ タリだった。今まではそれだけだったけど、今日、大磯くんがどう思ってんのかが判った。あんた のことだから彼に何も言ってないでしょうが、これでお互いの気持ちが揃ったワケよね。何が不 満なの？」 自分の中で符合していない理論を、姉が怒涛の如き勢いで吐露する。 逆に、消失点寸前の微弱な声量であさりは答えを返した。 「あさちゃん、組長とは今まで通りでいいって思ってて・・・」 突然。 「ああもう！ 我が妹ながら情けないったらありゃしない！ あんたそれでも大磯くんのコト本 気で想ってんの？」 タタミの心底からの、容赦を知らない言葉の砲撃が飛ぶ。さながら、轟音と共に空気を震わす 雷のようだ。 幼少の砌から幾度も晒されてきた姉の一喝だが、この時はいつも以上に衝撃が大きかった。 なまじ感情が陰の螺旋に陥っていただけに、尚更彼女の胸中に凄まじい影響を与える。ビクッ、 と身体を跳ねさせ、両眼を見開いてそのまま動けなくなった。 途端、タタミの両手が妹の上腕に伸び、ガシッ、と壮烈な気迫を伴って掴む。そして相手と同じ 高さにおのれの顔を持ってきて、瞬きも忘れたかのような視線であさりの瞳を覗き込んだ。 「いいこと？ これは話さないでおくつもりだったけど、あんたがあんまり知らな過ぎだから言わ せてもらうわ。長くなるけどよーくお聞きなさい」 姉は声色を一段階落とし、真摯そのものの雰囲気で言葉を繋げる。 いつもよりも重大な事実が控えているのを察知し、あさりが表情を強張らせた状態で二度、首 を縦に振る。 体勢を維持したままで、タタミは波涛のように次々と語りを続けた。 「大磯くん、あんたが休んだり、インターハイに出掛けてる間の授業をノートにとってきて渡して んのは今もやってるわよね？ あんたもブツブツ文句言いながら目を通してるでしょ。理解出来 てるとは思えないけど、今授業でどんなコトをやってるのか、くらいは判るんじゃない？ あれは 何でだと思ってる？ 前に生徒会一緒にやってた時に聞いてみたんだけど、あれってあんたを 貝柱高校に繋ぎ止める為にやってんのよ」 思わず妹は、声にならない驚きを漏らす。 「ウチの高校、わたしは卒業してるけど、卒業するまでにどれだけの単位を取得して勉強をこ なさなきゃならないか、あんたは解ってないわよね。大磯くんはあんたのレベルも、勉強嫌いな のも勉強出来ないかもよーく理解してるわ。いくらスポーツ特待生で大目に見てもらってるから と言って、最低限の授業と単位は落とせないのよ。そのギリギリの線で何とか行けるように、彼 は逐一授業内容を教えてくれてんのよ。文句言ったりしたらバチが当たるわ」 一旦話を停め、短く息を継いでから再開する。 「前にあんた、部活の練習が嫌で仮病、つーか怪我したって誤魔化して休もうとしたの覚えて る？ 走れないあんたは退学になるかも知んないって時に、大磯くんったら学校側に退学を考 え直すようにと交渉してくれたのよ」 「え？ でもあん時ってば組長、あさちゃんには・・・」 「それは表向きのこと。彼は校長と陸上部顧問、コーチのとこに行って『彼女も不注意が過ぎ ただけです。大目に見てもらえませんか』って頭下げてたわ。あんたみたいなの為にそこまでし てくれたのよ。それをあんたは・・・甘えて練習サボりたいから怪我したフリ？ 彼の気持ち踏み にじって部活もサボれていい気分でしょうね？」 突撃槍となった言葉の、鋭く強烈な一閃。 瞬時に胸を貫かれ、ズキッ、と深く激しい痛みがあさりを襲う。 まったく手を緩めず、タタミは凄まじい言語の雷撃を繰り出し続ける。 「今更謝ろうとしなくたっていいわよ。大磯くんはあんたにそのこと話してないでしょうから。で も今のは胸にしまっときなさい。もう二度とあんな馬鹿な真似しないようにね！」 僅かに呼吸を整え、姉が更に両眼を据えた状態にさせて口を開いた。 「まだまだ細かいコトはいっぱいあったわ。そしてわたしが卒業する日に、大磯くんを呼び止め て言ったのよ。『馬鹿な妹だけどよろしくお願いね』って・・・そしたら彼、何て言ったと思う？ 『はい、ふたりで無事卒業してみせます』って笑顔で答えたわ。解る？ あんたみたいなどーし ようもない娘の為に、これだけ努力してくれてる男性が他にいるの？ いないでしょ！」 タタミの一言一言が、注射の針となって心に刺さる。それから苦痛を和らげる薬剤が体内に広 がっていくように、じわり、と確実に染み込んでいく。 「あさり、よーく覚えておきなさい。大磯くんがいなかったら、あんたとっくの昔に貝柱高校退学 になってるんだからね。彼といられるだけで幸せなのかも知れないケド、その一緒にいられる環 境を創ってくれてるのは、他ならぬ大磯くんなのよ」 落差の高い瀑布から叩き付ける水の如く、彼女の裡に浴びせられていく言葉。 あさりは、思わず瞼を緩めて目線を伏せる。 それほどまでとは。潮が自分のことを考えて、そこまで行動を起こしてくれていたとは。 普段迎えてくれる表情、台詞、指摘からは読み取ることが出来なかった。気付かないのはお のれだけかも知れなかったが、陰で相当な尽力をしているにも拘わらず、あさりの前では一切 口にせず、ましてや鼻に掛けるような真似などしない。 脳裏に彼の笑顔が浮かび上がり、胸の奥が、キュッ、と音を出して萎む。それと同時に全身が 僅かばかり震え、暖房器具からではない、内側からの温かさが段々と表面に伝わっていった。 妹の腕を握ったままの両手から力を抜いて、タタミは掌を軽く彼女の肩に乗せ換える。 「あともう一点、言わせてもらうわ。あんたは少し危機感を感じなさい」 まったく想像だにしていなかった、示唆。 再び両目を丸くして、あさりは即座に問い返す。 「危機？ 何で？」 姉は眉間に皺を寄せて、ふう、と息をつく。それから彼女の疑問に対して、呆れたような表情 をここぞとばかりに貼り付けて回答を曝け出した。 「大磯くん、相当モテるんだからね。予想通りだけど、あんたはまっったく気が付いてなかった ワケか・・・ラヴレターとか受け取ってるかどうか判らないけどね、明らかに好意を示してる女の 子が何人かいるみたい。ヴァレンタインのチョコだって、食べきれないくらい貰ってるでしょ。義 理だけじゃなくて本気チョコも結構あると見てるわ。知らぬが仏、って言うけど・・・そんな悠長な ことは言ってらんない筈よ。だから危機感持てって言ってんの」 あさりは少し考え込むような仕種をし、顔を上げて言葉を繋ぐ。 「でも、組長今日あさちゃんのコト・・・褒めてくれたし・・・」 「だからこそよ。彼があんたをそう見てくれてるって判ったからこそよ。あんたも自分の気持ち が本気なら、これを機会に想いの丈をぶつけてみなさい。これはね、お互いの気持ちをもっと強 く結び付ける、千載一遇のチャンスなのよ！」 ゴクリ、と唾を飲み込んで、妹が口元を強く結ぶ。 次々と投入される凄まじく重い言語の数々に、自然と身体が引き締まってくるようだ。 「それとも何？ 可愛いって言われて満足してそれで終わり？ あんたがそれでいいってんだ ったら別に構わないけどね、そーやってあんたがボーッとしてる間に、大磯くん誰かに持ってか れちゃうかもね。それでもいいの？」 「やだ！ 絶対やだ！ 組長にそばにいてほしいんだもん！」 弾けるような大声。 迸る激しい感情と、心の深海から噴き上がってくる彼への思慕の念。 タタミは、漸く唇を緩めて微笑みを見せた。そして今までの鋭利で濃厚な口調を一気に収拾さ せ、転じて穏やかな声色で言葉を紡ぐ。 「よく言ったわ、あさり・・・それでいいの」 ほとんど妹を讃えることのない彼女が、賛辞の言葉を口にした。 続けて同様の調子を保ったまま、芯がはっきりした助言を行う。 「あんたに難しいことをやれなんて言わないわよ。その代わり、今の気持ちを忘れずに大磯く んに接しなさい。そして、彼のしてくれることにどう応えたらいいか、それを考えなさい。そうすれ ばきっと今まで通り、いえ、今まで以上のふたりでいられるから・・・解った？」 暫しの、間。 あさりは落ち着いた表情で、姉に視線を据えた状態で頷く。 「・・・うん」 それが、安堵の押印となった。 優しい笑みと眼差しを向け、タタミは乗せた掌で、ポンポン、と軽やかに妹の肩を叩く。それか ら身体を起こして立ち上がり、背を見せながら言う。 「じゃ、わたしはもう寝るから。あんたもボチボチ寝ときなさい」 その時は、いつもの彼女の口調に戻っていた。直後に扉のノブを回して引き、廊下に身体を滑 り出させようとする。 「おねーちゃん！」 途端、妹の声が飛ぶ。これも通常通りの声色だ。 身体を半分だけ部屋の外に置いたタタミが振り返り、再び目線を投げ入れる。 「ありがとね・・・」 あさりの、澄んだ言葉。 受け止めた姉が、眼鏡の奥でほんの僅か瞳を細める。しかしそれは一瞬で日頃の目の色に 回帰してしまい、ドアをゆっくりと閉じようとしながら台詞を落とす。 「まったく、いつまで経っても世話が焼ける妹だこと・・・」 耳に痛い一言をその場に残しつつ、タタミは扉を閉め、自室へと歩いていった。 電気ストーブの橙色を眺めながら、あさりは全身の力を思い切り緩和する。 台風と高潮が同時に来たような、凄まじい物量の忠告と示された方向性に、彼女は一回の身 震いを覚える。だがそれは転じて、暗闇を照らし道程を浮かび上がらせるランプでもあった。漆 黒の中でもがいていた自分を掬い上げて、新しい標を設置してくれたのだ。 姉に心底の感謝を抱くと共に、もう一度おのれの気持ちに光を当ててみる。 （組長・・・） 明瞭な画像で脳裏に投影された彼に、自分の本気を重ね合わせる。 未だかつてこれほどまでに、惹かれた相手がいるだろうか。幼少時から十数年、恐らくは初め て出逢った瞬間から重要視してきた関係―――幾重の思い出が募る、潮と過ごしてきた年月 が、現在彼女の裡に地層となって構成されている。その更に深くから、溶岩と見紛う高熱の感 情が上昇してくるのがはっきりと判った。 そして、あさりの想いは昇華し、虹色の輝きを放って全身に充満する。 一緒に、いたい。一緒に、いてほしい。 願わくば遥けき時間を、いつまでも。 この瞬間に彼女の中に湧いたのは、何処までも上昇気流に乗っていく気球のような、天の一 番高い場所へと吸い込まれていく感覚であった。それは一挙にすべての心根を活性化させ、次 に向かうべき方向へと進む為の気力を奮い立たせる。 もっと潮のことを考えよう。 もっと正直な想いを表していこう。 そして、更に出来るだけ多くの時間を彼と一緒に過ごそう。 決意が金剛石と並ぶほどまで硬度を高めていった。やがて彼への気持ちは高水準の純度を 維持したまま、あさりの最も深い部分で絶対的な位置を占める。 週明けの月曜日には、必然として学校で会う。その時、以前と同じ雰囲気で顔を合わせられ るか、正直なところ自信がない。しかし今の気持ちが揺らぐことがなければ、すぐにではなくと も、やがては肩肘張らない間柄へと回帰出来るであろう。何せ十年以上も崩れることのなかっ た感情が基礎になっているのだ。怖れることはない。 よし、と自分に納得させ、彼女が寝る為に布団を敷こうと立ち上がる。 途端。 机の上に置いた携帯電話が、高らかな着信曲を奏でた。 ビクッ、と激しい反応をして、あさりは身体を一瞬収縮させる。その直後、鳴り続けるそれを凝 視して全身を硬直させ、頬を紅色に染め上げていく。 潮から電話が入った時に流れるように設定していた、音楽。 彼に選んでもらった曲。彼が一番好きな外国のバンドの、一番好きな歌。 これを聴くことは少ない。何故なら、連絡を取り合うよりも早く逢えることがほとんどだからだ。 しかし鳴ればすぐに判るように、この曲を定期的に耳にして、忘れたことなどなかった。 震える手で携帯電話を持ち、液晶画面を覗く。間違いなく潮からだ。 鼓動が短距離走を始める。ゴクリ、と唾を飲み込み、緑色の受話器が描かれたボタンを押し た。 「も・・・もしもし？」 声が上擦り、ひっくり返る。 そして、小さなスピーカーの向こう側から聞こえてきた彼の挨拶に、あさりは感覚が一気に沸 騰して蒸発しそうな気恥ずかしさを覚えた。自分でも顔が火照っているのがはっきり判る。 心臓は急激な運動から、持続的な走駆へと切り替わる。 また同時に、あさりは柔らかく嬉しそうな笑みを開花させていた。 連絡の内容は、宿題として出された問題集の件。 すっかり失念していた少女は、慌てて明日の約束をすることになった。 彼は予め立てていた計画のように、時間を指定してこちらに来るように言う。こういったことは 毎回の出来事らしく、澱みない段取りで話を進めていったのだ。 翌日、昨晩堅めた意志を胸に、彼女は大磯家へと向かう。 しかし。 その日から当面の間、あさりは潮の台詞に翻弄され続けた。いつ赤面が治まるか判らないくら い、連日、優しく温かい眼差しと言葉を注ぎ込まれることとなる。 発展的だが、前途は多難であった。 |
