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そこに到着したのは、既に日が暮れて三時ほど経った頃であった。夜の帳が降り、辺りは一
面の静けさの中だ。
ふたりは、立っている。 目の前には、月明かりに映える建物が浮かび上がっていた。壁は純白に塗られており、二階 建てにしては低く、平屋にしては背が高い。しかし造りは堅固そうで、庭も広く、多くの草花が宵 に眠っている。 デスは暫くの間、言葉を忘れて眺めていた。月光に照らされた風景に心が動かされる。 「さ、どうぞ、入ってよ」 ハイエロファントは彼女を振り返り、にこやかにそう告げる。 その声に、少女は我に返り、軽い頷きで返事をして彼の後に続いた。 ふたりの足元で、夜露に濡れた飛び石が、キラリ、と月の光に煌く。 泉での出来事の後、デスはハイエロファントの家に向かうことになった。彼から切り出された 誘いを、死神の少女は断わることなく応じる。いつもなら即座に拒否しているところだったが、何 故かこの日は少年の話を、自分でも驚くほど素直に受け入れる。 理由ははっきりしない。だが、ひとつだけ言えることがある。 デスは、ハイエロファントと離れる気になれなかったのだ。 あれだけの荒んだ感情が何処かへと消え失せ、現在は全体像が明確でない奇妙な意識に支 配されている。彼女は未だに、これが何であるのか理解出来ていない。 この家は、少女の住む洞窟からは凡そ五時の道程である。その間、法王の少年は様々な話 題を提供して語り続けた。彼が次々と紡ぎ出す話はその数も種類も豊富で、尚且つ深い。ま た、聞く人を魅了する力があったのだ。 しかし、その話を聞きながらも、デスはある台詞に拘らざるを得なかった。泉で言われた、彼の 言葉―――彼女に深く突き刺さっている、想いの籠った語りである。 そしてまた、少女は模索していた。 （ハイエロファントの奴・・・本当にあたしの側にずっといるつもりなのか？ 本気でそう考えて るのか？ でも、どうして・・・幾ら「目が離せない」って言っても、四六時中あたしを見てんじゃあ るまいし・・・） 彼の真意が、理解出来ない。 幾度、直接訊こうか迷ったことか。結局はそれが実現せぬまま、少年の家に到着してしまった のだ。 そんな彼女の疑念を知らないハイエロファントは、玄関の鍵を解く。両開きの大きな扉で、木 目がはっきり見えていた。樹の香りが漂っている。扉もそうだが、どうやら建物自体がまだ新し いのであろう。白塗りの壁も、塗料の匂いが芳しい。 彼の先導で、デスは玄関内に足を踏み入れる。 壁の灯りに火を入れた少年は、彼女に向き直った。橙色の光が溢れる玄関の広間で、彼は 告げる。 「取り敢えず休んでてよ。僕の書斎でよければ、そこのドアがそうだから。それとも先に、汗を 流すんだったらお風呂沸かしてくるから」 「・・・いい。昼間のうちに沐浴を済ましてるからな」 途端、ふたりの間に沈黙が走る。互いに、洞窟の泉での事件を思い出してしまったのだった。 目線が絡み合う。 ハイエロファントは、あっと言う間に上気した。ほんの僅かな時間で脳裏に焼き付いた、彼女 の裸身が浮かぶ。 デスの冷ややかな瞳が、少年を責めさいなむ。 「・・・ごめん・・・ホントに、ごめん・・・」 彼は、俯いてそう言うのがやっとだった。 死神の少女は、ふう、と溜め息をつく。それから黙ったまま、書斎の扉に手を掛けた。背後で 少年が見詰める視線を感じながら、彼女は室内に入る。後ろ手で扉を閉め、壁の灯りを点け る。 光の中に浮かび上がったのは、天井近くまである幾つかの本棚と、それに収められた書物の 膨大な量であった。そして、部屋の一角に木製の机と椅子、窓の際には柔らかそうな布張りの 長椅子がある。 デスはその長椅子に腰を下ろす。ぐるり、と首を回して部屋の中を改めて眺める。 暫くして彼女は、手にしている大鎌に目をやり、そのままぼんやりと見ていた。今、少女の頭の 中は、ふたつの事柄に引っ掻き回されている状態だ。 自分の運命と、ハイエロファントの言葉に、である。 少年は、入浴後に書斎に来た。 彼はいつもの法衣を着替え、綿織りの白い色の上下を着ている。上着は半袖であった。 法衣姿しか知らないデスは、ハイエロファントが部屋に入ってきてからずっと、普段着の彼を 見詰めていた。着衣もそうだが、彼女の関心を特に惹いたのは、その蒼い髪である。いつもは 帽子で隠されているところまで、今は晒されていた。 「・・・どうしたの？」 訝し気に、少年は質問する。 彼女はまったく視線を動かさず、即答した。 「いや、初めてお前の髪型を見た、と思ってな」 「そう言えば、君の前では帽子を取ったこと、なかったよね」 ハイエロファントは、微笑を浮かべて話す。 それから彼女の傍らまで歩み寄る。 「もしもう眠くなったんだったら、僕の寝室を使ってよ。僕はこの書斎で寝るから」 デスは、未だ眠くはなかった。しかし、実に様々な出来事があった今日は、ひとりになっていろ いろな考えを巡らせた方が良いのではないかとも判断している。 「・・・じゃあ、そうさせてもらう」 少女は素直にそう答えた。 そしてハイエロファントが前に立ち、ふたりは玄関の広間を抜け、奥の廊下に進んでいく。右に 直角に曲がって、その突き当たりに扉が見える。少年がそれを開け、彼に続いてデスも中に入 った。 白い掛け布団と枕を乗せたベッドがひとつ、側の小さな机からの灯りに照らされている。厚手 のカーテンが掛かった大きな窓が、正面と左側にあった。 「着替えが必要なら、上着、貸すけど・・・」 少年が振り返って言う。 死神の少女は、ベッドに近寄る。大鎌を枕元の壁に立て掛け、彼を見ずに言葉を繋げた。 「いや、必要ない。このまま寝る」 「そう・・・じゃあ、ゆっくり休んで、ね」 ハイエロファントは踵を返す。そして廊下に出て扉を閉めながら、デスから目線を離さずに声を 掛けた。 「明日、朝食が出来たら呼ぶから。それじゃ・・・」 「待て・・・ハイエロファント」 突然、少女が引き止める。 「え・・・何？」 彼は、ドキッ、とした様子で動きを止めた。それから彼女を見詰めたまま、次の言葉を待つ。 「・・・いや、何でもない」 「うん。それじゃあ、おやすみ」 優しい声色で、ハイエロファントが挨拶をする。 それに返事をしなかったデスは、その後の扉を閉める音も、遠ざかる彼の足音も背中を向け て聞いていた。 暫くして、彼女は首元の留め金を外し、ローブを無造作に床に放り投げる。革の手袋とブーツを も脱ぐと、そのまま寝台に腰を下ろす。そしてぼんやりと窓の方を眺め始めた。 時が、幾許か流れる。 その間、彼女が考えたことと言えば、明日は着替えを取りに戻ろう、という行動予定だけであ った。 何しろ、今日はいろんなことがあり過ぎた。 落ち着いて物事を判断する余裕など、皆無だった。 この時間になって、漸く冷静になっている。しかし、感情の浮き沈みが激しかった反動で、今 現在は思考状態が芳しくない。 デスはのろのろと身体を返し、ベッドに寝転んだ。 横向きになると、ほのかな香りが鼻をくすぐる。何の匂いだろうか、涼しさを感じさせ、安堵すら 覚える。 （あいつの・・・匂いかな・・・） いつもは、少年が寝ている場所だ。 目を閉じて、ゆっくりと息を継ぐ。肺の奥まで温かくなっていく感覚である。 少女は、この上ない心地よさを味わっていた。泉での沐浴とは違う、別種の感動だ。まるで大 きく優しい腕に抱かれているような、深く落ち着いた気持ちになる。 やがて、デスは眠りに入った。 意識が明瞭さを欠いていく中で、彼女はひとつの決断をする。それは、ハイエロファントの例の 言葉―――泉で自分に言った台詞の真意を明日こそ訊こう、ということであった。 翌朝、少女は早くに起きた。 未だ太陽が山の端から顔を出していない頃、鳥の歌で目が覚める。 ぼんやりとベッドに腰を掛けたデスは、実に緩慢な動作でブーツを装着した。頭の機能が麻痺 しているような状態だ。 彼女は、決して寝起きが悪い訳ではない。ただ昨日の反動とでも言おうか、神経的な疲れが ある。それが現状に結び付いているのだ。 部屋を出て廊下を歩く。玄関の広間まで来ると、そこから向かって右手の方、書斎と反対側に 扉がある。 中から、何やら音がしている。 デスの意識は、漸く覚めてきた。そして扉に手を掛けて押し開け、ぬっ、顔を覗かせる。 そこは、台所と居間を兼ねた部屋であった。木製の食卓や椅子が並べられて、竈と炊事場が 備わっている。水瓶もあり、野菜を詰め込んだ籠が所狭しと置いてある。ここの壁は薄い乳黄色 で、全体的に暖かさを感じる落ち着いた空間を演出していた。 そして炊事場の前では、昨日最後に見たままの格好で、ハイエロファントが緑色の野菜を刻 んでいる。 彼の手が止まった。 デスが扉の側で立ち尽くしているのを、振り返って見詰める。途端、満面の笑みを湛えた。 「おはよう！ どう？ 眠れた？」 いい笑顔だ。 その時、少女は素直にそう感じていた。 「・・・まあな」 しかし、ぶっきらぼうにしか答えない。 それでも少年は、返答に満足したようだ。大きく頷いてから彼女に向き直る。 「ごめんね、朝食の仕度、まだかかるから。顔、洗うんだったら、そこの戸口から裏庭に出て右 の方に井戸があるからね。あ、このタオル使ってよ」 ハイエロファントが、そう言って食卓の上の白いタオルを指差す。 死神の少女は黙って頷き、それを手にとってから、戸口に手を掛けるつもりで彼の傍らを抜け ようとした。 「わっ！」 仰天の声が、少年の口から発せられる。 それに驚いて振り返ったデスの両眼に、目を真ん丸くしたハイエロファントが、唇を半開きのま ま動きを停めている姿が映った。 何事かと目を細める彼女に対し、震える声で少年が言葉を繋ぐ。 「・・・デ、デス・・・あの・・・せ、背中・・・服が・・・」 その台詞を聞いた直後、少女は理解を終えていた。 彼女の服装―――革製の、身体にぴったりと密着しているスーツは、前面から見ると腹部が 開いており、水着のような印象を受ける。しかし背面は、首に巻かれた部分から腰まで何もな く、まるで上半身が一糸も纏っていないような姿にしか見えないのだ。着衣としての機能は、ほ ぼ前面に集まっているのだった。 普段は背中をローブで覆っている為、この事実は判らない。勿論、ハイエロファントは知らなか った。 言うまでもないが、彼にとって衝撃的な服装なのだ。 そして、頬を染めたまま動けない少年を、デスはわざとらしいほどの大きな溜め息をつき、睨 む。 「何だ？ あたしの服がどうかしたのか？」 かなり、つっけんどんな言い方だ。 彼が動揺している理由は解る。女性の肌に免疫がないから、見慣れてないからそうなることく らい理解している。 しかし、理屈で納得しても感情が納得していない。 その時デスは、自分が拒否されてるような苦々しさを味わっていたのであった。 一旦は自分に対して向けられた彼の気持ちが、ここで掌を返されたような腹立たしさ。 ハイエロファントがそうは思っていないと推測していながら、デスの裡は一気に荒れ始め、瞬 間的に嵐に巻き込まれた船の如く、防ぎようがない翻弄に心を委ねてしまった。 それが、言葉に表れる。 「どんな服を着ようがあたしの勝手だ！ お前にどうこう言われる筋合いはない！」 相当の苛立ちも込められていた。 「大体な、お前はあたしの裸を見てるんだろ？ 何を今更こんな服で驚いてる？」 遂には、皮肉まで飛び出す。 その間、ハイエロファントは段々と表情を戻し、やがて悲し気な色を瞳に宿した。返す言葉もな く、項垂れる。 少女は、再び嘆息をつく。 それから突き放すような口調で、彼に言った。 「今からこんなことじゃ、お前は結果として嘘をついたことになりそうだな」 「・・・それ、どういうこと？」 珍しく怒った様子で、少年が顔を上げる。 しめた、とばかりにデスが言い返す。 「だってそうじゃないか。お前、昨日洞窟の泉であたしに言ったよな。『ずっと側にいたい』っ て・・・あたしの服くらいでいちいちビクビクしてたんじゃ、それは実現出来ないだろ？ 大嘘でし かないな。あたしを騙すんだったら、もう少しはマシな嘘をついたらどうなんだ？」 「違う！ 嘘なんかじゃない！」 電光石火の返答だった。 「本当に・・・君と一緒にいたいんだ・・・」 ハイエロファントは、噛み締めるように話す。彼女の瞳から真っ直ぐの視線を離さず、想いを込 めて言葉を編む。 少女の心が、揺らぐ。 泉で語られた彼の台詞が、再び湧き上がった。 同時に自分の内部の嵐が去り、奇蹟のように一瞬で静まる。今、少年の真摯な眼差しを浴び て、デスは身体が熱くなるのを感じていた。最早、何も言い返せない。 たったの一言、彼が語った言葉は凄まじい効果をもたらした。 少女の裡には、ハイエロファントしかいなくなる。 少年の裡には、デスしかいなくなる。 ありとあらゆる感情が、互いに向けて集中した。複雑な、尚且つ様々な種類の想いが、目に見 えない空間を激しく行き交い始める。初めて出逢ってからこの時までに蓄積された相手への気 持ちは、本人たちの自覚を伴わない深層から一気に表層面へと押し上げられることとなったの だ。 暫くの沈黙が流れた。 口籠りながら、少年がそれを破る。 「・・・だから、その・・・僕が、君の服に慣れればいいんだ。頑張って慣れるよ。あの、だか ら・・・僕が慣れないうちに変な反応しても、気にしないで・・・ほしい・・・」 頬に赤みが差しているが、瞳は真っ直ぐだ。 少女は、拍子が抜けた顔となった。 彼の言い出した事柄と、実に真面目な表情との調和が、妙な可笑しさを含んでいたからであ る。 デスは、久々に口許に笑みを浮かべた。 「そうか。そこまで言うならあたしも構わない。さっさと慣れろよ」 そう言い残して、彼女は裏庭へと出て行った。 井戸を見付ける。手桶に水が満々と溜められており、少女は屈み込んでそれを使って洗顔を する。それから立ち上がり、タオルで顔を一拭きしてから大きく伸びをした。 朝靄を含んだような、軽い湿り気のある風が頬を撫でる。 肌に残る水滴を感じながら、彼女は未だに自分の裡にある可笑しさを噛み締めていた。彼の 言っていた内容が、真剣な表情とそぐわないにも係わらず、その想像し難い合致性に驚いてい る。 あの台詞は、辛辣な雰囲気とは大きくかけ離れていた。だが、法王の少年は実直極まりない 顔でそれを告げたのだ。ああいった提案や行動方針さえも、彼にとっては重要な検討課題なの だろう。 デスには、それが理解出来た。 何故なら、今までハイエロファントが彼女の内面に向けた言葉は、真っ直ぐで、そしてすべて 感嘆に値するものだったからだ。 服装に関することなど、彼にも言い分があるだろう。何か着てくれ、などと。しかしハイエロファ ントはそうは言わない。結果的に少年がとろうとしている行動は“自分が慣れる”という、自分の 主義主張を差し置いての行動、相手の意志を尊重する論理なのだ。それも、彼が自分自身を 見下げたような負の感情などではない、あくまで少年の感覚ありきで、更にこちらの気持ちも考 慮している。 ハイエロファントは、デスを優先している。 いや、相当な水準で重要に考えていた。 それがかつての彼の行動、言葉、表情、そして眼差しから痛いくらいに解るのだ。 今までの少年の言動をひとつひとつ思い出し、デスは軽い脳髄の痺れを覚えた。 今、はっきりと自覚する。 法王の少年―――ハイエロファントは。 自分を―――死神である自分を。 認めてくれている。 自分の存在が、ここにいる自分が、生まれて初めて生きることを許された気がする。 その瞬間。 デスの内面が、太陽の如き眩い光に溢れた。 古い惑星が砕け散り、凄まじい輝きの渦の中で新しい星が誕生していくように、彼女の裡は波 を打ちながら大きく変化していく。 うねりが段々と治まった頃、彼女はふと、自分の格好を桶に溜められた水面に映してみる。 なるほど、改めて見てみると少年には刺激が強過ぎるかも知れない。 それにしてもあの時の真剣な表情は、死神の少女にとって如何ともし難い。何と言うべきか、 返す言葉に苦労しそうな状況だったのだ。 （まったく・・・ハイエロファントの奴、真面目な顔で言うような話かよ。「着替えろ」とか言っても いいのに・・・まったく・・・あいつは・・・） デスは、笑った。 幼い頃に表して以来、封じ込められていたであろう、満面の笑み。 そして同時に、彼女の裡に湧き出す、嬉しさ。 少年の真摯さは想いの表れなのだ。つまり、それほどまでに少女を―――デスを想っている。 そう理解して間違いないだろう。 今まで味わったことのない、嬉々の感情。 溢れる気持ちに瞳は潤み、顔がほころぶ。 それは。 デスの中に、ハイエロファントへの特別な想いが誕生した瞬間であった。
《第四章に続く》
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