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鳥が、さえずっている。
穏やかな陽の光が樹々の枝間から溢れ、細い道を照らしていた。何も用事がなければ、暫く 立ち止まって周りの風景を眺めていきたい―――そんな感動を覚える、山の中の小道だ。 ハイエロファントは、急いでいた。 耳に届いている筈の野鳥の綺麗な歌声ですら、彼を足止め出来るものではなかったのだ。 少年は焦燥している。 あの日以来ずっと、だ。 おのれの裡の灰色の澱みは、未だに渦を巻いていた。これほどまでに沈んだ気持ちは、かつ て味わったことがない。 彼はひたすら、デスの行方を捜していた。 少年がドロップで願いを叶えた直後からその姿を消して以来、マジカルランドの何処にも現れ なかったそうである。この世界を隈なく見渡すことが出来る『第三の目』を持つ女神、ワールドに 尋ねても、その所在は杳として知れない。 デスの住居は、誰に訊いても不明であった。恐らく、死神である彼女の住所など、何人も知ろ うとしていなかっただろうし、知りたいと思う者が存在するとも考えられない。唯一、法王の少年 だけがその居場所の情報を切望していたのだ。 だが、五里霧中である。まったく手懸りがない。 しかし、ハイエロファントは歩き回った。幾日も幾日も、永い時間を掛けて、少年は探索してい るのである。 そして今現在、彼は山道に姿を現した。その先、凡そ一山くらい越えた辺りには、緑がほとん ど存在しない荒涼とした岩山が聳えている。人影もない、誰も近付かない地区だ。話によれば、 前人未到の洞窟が数多く点在する、という。 少年の目標は、その場所だった。 朝、自宅を出発して、真っ直ぐにこちらに向かって来たが、既に太陽は頭上に輝いている。こ こまでかなりの距離を移動してきた。 疲労がある。脚の痛みもある。 それでも、ハイエロファントは歩みをやめない。 一時も早く、彼女に逢わなければならない―――そんな感情が、彼の内面を支配していた。 それは、大きく二つに分類される。少女の安否を気に病む心情と、あの時の涙の意味を知りた いという欲求である。 （・・・僕は・・・デスを傷付けたんだろうか・・・） ハイエロファントは、そう考えながら歩いていた。 とにかく、デスに逢いたい。逢って話をすれば、きっと彼女の気持ちが理解出来るに違いな い。 この考察が、彼を行動に駆り立てていたのだ。 やがて、太陽が斜めに傾き出して二時ほど経った頃、少年の目の前に新たな風景が広がっ た。焦げ茶色と灰色、そして黄土色で固められている殺伐とした空間がそこにある。 彼は一旦足を停め、岩山を眺めていた。 暫くしてから、山の麓に沿って歩き始める。 程なく、それは発見された。 洞窟の入口だ。 表の方で、何かが動く気配がした。 デスは訝し気に振り向いて、少しの間目線を投げていたが、再び洞窟の奥に身体を返す。そ のまま、真っ直ぐに歩き出した。 その内部には、光を放つ苔があちこちに群生している為、充分に明るく、歩き回ることもまった く苦にならない。空気も驚くほどに清んでおり、外界よりも涼しく、快適だ。 死神の少女は、足早に奥へと進む。 表情には翳りが貼り付き、口許は固く結ばれていた。 どれほど歩いたのだろうか、やがて彼女の目の中に大きく広がった空間が飛び込んできた。 高い天井からは、乳白色の鍾乳石が無数に垂れ下がっている。今まで歩いてきた洞窟よりも 気温が一段と低い。 広間とでも呼ぶべきこの空間の床中央には、蒼く波打つ水面の絨毯が敷いてある。 泉が湧いていた。 感嘆するほどの透明度を保つそれは、水底に白砂を湛えている。水深は膝よりもやや深めだ ろうか。どうやら、奥手の水底より滾々と噴いている様子だ。 デスは、この広間の片隅に足を向ける。特に周囲と区切られている訳でもないそこには、いろ んな物品が無造作に積み上げられたりして固まっていた。衣類や毛布、何が入っているのか判 らない多数の布袋、そして夥しい冊数の書物に至るまでが、管理をしているのかどうか判別出 来ない状態で山となっている。 恐らく、彼女の私物であろう。 その中から、至極当然の行動でランタンを取り出す。硝子が薄く曇っているそれを、少女は軽 く叩いてみる。すると、内部にある小さな水晶球が眩い光を放ち始めた。魔力を蓄積しておいて 作動する、火気不要のランタンであった。 灯りを手に下げたまま、デスは泉に歩み寄り、傍らの岩に腰を下ろす。そしてランタンと、肌身 離さず持っている大鎌を床に置き、彼女はおもむろに着衣を脱ぎ始める。 少女が日課としている、沐浴であった。 やがて一糸纏わぬ姿になったデスが、泉の淵にゆっくりと身体を沈める。体温が奪われ、染 み透るような冷水が絡み付いてくる。 彼女は全身を、ブルッ、と震わせて、水底の砂に座ってから、大きな溜め息を吐き出した。 心地よい。 デスは、この沐浴が好きだった。 気分が落ち着き、嫌なことも忘れられそうだからだ。常に死を追い求めている少女の、一瞬で も自分と向き合える僅かな安らぎの時間なのである。 だが、今は普段と状況が違っていた。 未だに落ち着かない。気持ちが荒れている。 七日前、『法王』の力を持つ少年にマジカルドロップを使われてからずっと、であった。 （・・・あたしは・・・これからどうしたらいいんだ・・・） 泉の底の砂を掌で弄びながら、デスは苦虫を噛み潰したような表情で思う。 遠くから、水滴の音が聴こえる。 清んだ音色で、幾つもの旋律が奏でられていた。 その調べも、彼女の心を癒すことは出来ていない。 突然、死神の少女の耳に異質な音が飛び込んできた。先ほど歩いてきた通路の方向から、カ ツン、という石が蹴られたような響きだ。 「誰だっ！」 それが広間内に共鳴するよりも早く、ザバッ、と大きな水音を発して立ち上がり、デスは素早く 大鎌を掴む。次の瞬間、裸身のまま泉から飛び出していた。彼女は、殺意を漲らせた死神とな っている。 「わーっ！」 直後、広間と通路の境目辺りで、少年の甲高い悲鳴が上がった。 デスは、逆に驚かされる。予想もしない反応が返ってきたからだ。 彼女が、じっ、と目を凝らす。見覚えのある法衣姿の人物が、こちらに背を向けて屈み込んで いる。 「ハイエロファント!? お前か！」 少女の問いに、少年は震える声で言葉を繋げた。 「ご、ごめん！ まさか、あの、入浴中だったなんて知らなかったんだ！」 台詞の間、彼は丸くなったままだった。よく見ると耳が真っ赤に染められている。全身も、異状 な緊張でガチガチに固まっている様子だ。 ふう、と嘆息をついたデスは、大鎌を構えから解いて肩に立て掛ける。そして、冷静な口調で 質問を投げた。 「何しに来た？」 しばしの沈黙の後、ハイエロファントが返答したが、それは問いに対しての答えになっていな かった。 「あの・・・まず、服を着てくれる？」 泉の辺にある平たい乳褐色の岩に、ふたりは並んで腰を下ろした。 既に普段の着衣を纏ったデスは、ちらり、と少年を見る。彼は未だに、顔の火照りが取れてい ない。そのまま、彼女は暫く視線を預けてみる。 それに気付いたハイエロファントは、一瞬だけ目を合わせて、より一層上気して俯いてしまっ た。 猛烈な照れである。 少女はそれでも、その反応を面白がる様子もなく、口を固く結んでから正面の泉を眺め始め た。 永く、永く重苦しい時間の後、漸くデスが口を開く。 「・・・覗きが趣味とは知らなかったな」 直後、跳び上がらんばかりに驚き、慌てふためいたハイエロファントが、首を、両掌を左右に思 い切り振って、言葉をつかえさせながら弁明する。 「いや！ 違うよ！ ワザとじゃないんだよ！ だ、だから、あの、入浴してたなんて知らなかっ たんだってば！ ホントだよ！」 「見苦しいぞ。大体何でお前があたしの居場所を知ってたんだ？」 その発言で冷水を掛けられたように、少年が通常の自分を取り戻す。ふう、と大きな溜め息を つく。 「違うんだ。知ってた訳じゃない、捜したんだ」 いつもの声色だ。 「あの日から、ずっと捜してた・・・デス、君にどうしても逢いたかった」 少女の裡に、軽い驚嘆が生まれた。初めて聞く内容の台詞である。 「あたしを捜してた？ どういう意味だ？」 声質が、更に低くなった。疑念が含まれている。 ハイエロファントは、穏やかな眼差しで彼女を見詰め、話を始めた。 「あの日・・・君が突然立ち去ってから、僕は考えた。何故君を泣かせてしまったんだろう、っ て。僕がドロップで叶えた願いがそれほど酷いものだったのか、とも思った・・・だから、君に逢っ て話をしたかった。デス、君の本心を・・・僕に対して言いたいことがあれば、それも聞くつもりだ った。お互いに話し合えばきっと解り合えるだろう、って考えて、毎日君を捜し続けて・・・今、漸 く逢えたんだ」 優しく、耳に染み込むような言葉だ。 デスは、水面を見詰めたまま聞いていた。 やがて彼女は、何かを思い立ったように腰を上げて、少年を見下ろして口を開く。 「お前、灯りの魔法は使えるか？」 いきなりの問いに、ハッ、と顔を上げたハイエロファントが返答した。 「あ、うん。一応使えるけど・・・」 「見せるものがある。ついて来い」 顎をしゃくって、彼を促す。 少々意外な行動に戸惑いながらも、少年は立ち上がり、彼女の後に続いて洞窟を戻っていっ た。 そのまま、ふたりは外へ出る。 太陽の眩しさに、ハイエロファントは幾分の目の痛みを覚える。それでも構わず真っ直ぐに、デ スの後ろ姿を追って歩く。 もうひとつの洞窟に到着したのは、泉を離れてから凡そ五分後であった。 入口が、狭い。 ひとりがやっと通れるかと思うと、すぐ内部は急な降りになっている。その通路は細く、足元も 暗くて周りが見えにくい。先刻の洞窟とは打って変わった、危険な雰囲気が漂っていた。 「こけるなよ」 デスはそう言って、軽やかな足取りで地下に降りていった。内部を知り尽くしているようであ る。 一方ハイエロファントは、逆におっかなびっくりと歩を進めた。足元は乾いていて滑ることはな さそうだが、何かにつまづいて転がり落ちる可能性がある。自ずと慎重になるのは当然であろ う。 遅れて降りてきた彼を、死神の少女は待っていた。 通路が平坦になる所から、更に奥へと暗闇が伸びる。 デスの目配せに、法王の少年は一旦頷き、両掌を向かい合わせて意識をそこに集中させる。 一呼吸の沈黙の後、彼が言葉を発した。 「ライト！」 すると左右の掌の間が眩しい光を放ち、それは十五、六センチほどの球体と化して、ふわり、 と浮かぶ。そしてふたりの斜め頭上に流れ、足元から三メートルの高さ辺りで動きを停めた。 一気に、洞窟の奥の方に光が溢れる。 ふたりは、再び歩き出した。 暫く進むと、向かっている方向に開けた空間があるのが確認出来る。先ほどの洞窟にあった、 泉の広間のような天井の高い場所のようだ。 その手前まで来て、突然デスが立ち止まった。 ハイエロファントも脚を停め、彼女の背中に問う。 「どうしたの？ デス」 「・・・入って、中を見てみろ・・・」 搾り出すような声だ。 様子がおかしい。 「早く入れ！」 何事かと訊くつもりだった少年に、死神の少女は言葉を投げつける。有無を言わせない口調 である。 とにかく、ハイエロファントは先に立って進んだ。 光球の先導で、広間に足を踏み入れる。 その瞬間、妙な臭いが鼻を突いた。地上では嗅いだことのない、異様な臭気―――その答え は、光に照らされたその内部で、少年が目撃することとなった。 見た途端、衝撃が走り、息が停まる。 髑髏。 それも、夥しい数の髑髏。 大あり、小あり、形も様々な灰褐色に変化した髑髏。 壁際に積まれ、足元に散乱している、見渡す限りの髑髏の山。 無限にも思えた思考停止の後、ハイエロファントは漸く額の汗を拭った。しかし、呼吸は乱れ ている。止むを得まい。この事実の前では、何人たりとも落ち着いていることなど出来ない筈 だ。 「これは・・・一体・・・」 やっと言葉を発する。 デスが近付いてくる足音が響き、少年が振り返るのと同時に彼女からの返答が始まった。 「見たか？ これが、死神として・・・」 一瞬、声が詰まる。 「・・・あたしがやってきたことだ・・・」 苦しい声色で、吐き出すように言う。 ハイエロファントの眼前で、少女は固く目を閉じ、奥歯を思い切り噛み締めて顔を伏せた。まる で、全世界の災厄を一身に背負ってしまったかのような、悲痛な表情である。 少年は、思い出していた。 七日前に彼女がフォーチュンの前で見せた姿を、だ。 あの時の少女と、今の少女が重なってくる。 ハイエロファントは、デスに歩み寄った。 声を掛けようとした瞬間、彼女が言葉を漏らす。 「出るぞ・・・気分が悪い・・・」 すぐさま踵を返す少女の顔色は、魔法光に浮かび上がって彼の瞳にくっきりと映る。 驚くほど、蒼い。 慌てたハイエロファントが傍らに走り寄る。 途端、少年の目の前で、彼女は身体の平衡を崩し、上半身が大きく左右に振れた。 「デス！」 声を上げて空かさず支えようとするが、倒れるかと思われた寸でのところで、死神の少女は両 脚を踏ん張り、辛うじて歩みを保つ。しかし、細い糸に吊られた操り人形の如く、彼女の身体は 重心が定まっていない様子だ。 吐き気をもよおしているのか、少女は口許に左手を当てて俯いている。それでも歩くのを止め ようとしない。一刻も早く、この場から立ち去りたいのであろうか。 ハイエロファントは眉を寄せ、声を掛けられない雰囲気を放つデスを見詰め続ける。 そして彼女を横から支えるようにして、元来た洞窟を地上へと引き返していった。 ふたりは、泉へと戻ってきた。 先刻まで腰を下ろしていた平たい岩に、並んで座る。 デスは息が荒く、肩を上下させていた。顔色は幾分良くなってはいるが、未だに険しい表情を 崩さない。 ハイエロファントは、じっ、と彼女に目線を固定している。黙って寄り添ったまま、少女の顔を視 界から外さない。そんな少年の表情にも翳りが張り付いていた。 「気分は・・・どう？」 どれくらい時間が過ぎた頃か、ハイエロファントがデスの顔を覗き込むようにして尋ねる。 死神の少女は、長い息を吐いた。 それから、答えを返す。 「・・・今は悪くない。随分楽になった」 「よかった・・・一時はどうなることかと思ったよ」 安堵の溜め息混じりに、少年が言葉を続けた。漸く、彼の口許に微笑が浮かぶ。 それからまた暫くの間、今度は落ち着いた状態で、ふたりは黙って座っていた。 デスが口を開いたのは、幾時ほど経った頃だろうか。 泉の水面を遠い目で見たまま、彼女は語る。 「・・・あたしは、産みの親を知らない」 ハッ、と驚いたように、ハイエロファントが少女を見詰めた。突然の話の始まりに戸惑いが生じ る。しかしすぐに、彼女の語りを全身で聞こうと、彼は心を預けた。 それにも構わないかのように、デスは言葉を続ける。 「物心ついた頃から、あたしは先代の死神に育てられた・・・お前は知らないだろうが、あたし は何代目かの死神なんだ。先代からは『将来は死神にする』とはっきり言われて育てられ、そ れが当然なことだと、あたし自身も思ってた。いずれは先代から正式に死神を継ぎ、襲名するも のだと・・・」 淡々と、少女は語っている。 「しかし・・・それは結局実現しなかった・・・」 そう話した途端、声色が突然変わった。 再び切なそうな、苦しそうな表情になる。 「・・・あたしは・・・先代をこの手で殺した・・・」 衝撃が、ハイエロファントを襲う。 息を飲み、目を見開いてデスを凝視した。 話は続く。 「もう十年ほど前になるか・・・それは突然起こった。夕餉を摂り終えた先代が倒れ、激しい頭 痛と息苦しさを訴えて床に就いた。医者を呼ぼうとしたが先代は頑なに拒絶して、あたしは判る 範囲での看病を続けた。しかし日を追ってやつれ、十日も経った時には呼吸をしているかどうか も怪しいほど衰弱したんだ。先代の眼は灰色に曇り・・・いつもは宝石のように美しい真紅の瞳 が、最早見る影もなくなった。正直、もうどうしていいか判らなかった。看護にも疲れた。気がど うにかなりそうな中で、あたしはふたつのことを思い出したんだ。先代が口にしてた言葉・・・『死 神の仕事は、苦痛から解放してやること』『首を落とされた者は生き続けることが出来なくな る』・・・これらが、自分の中で急激に融け合わさり、今の状況を打破するにはどうしたらいいか、 あたしなりに結論を出した。そして・・・」 少女が、固く瞼を閉じる。 「あたしは・・・あの大鎌を握って・・・」 息を詰めて、搾り出すように言う。 「・・・先代の・・・首を落とした・・・」 驚愕、という表現すら生温い。 言葉を聞いた少年の裡は、真空の状態と化した。 それに追い撃ちをかけるが如く、真実は語られていく。 「頭が床に落下するゴトンという音で、あたしは我に返った・・・気が付いたら血に染まった大 鎌の刃と、斬り口から止め処なく溢れる赤黒い血液・・・血の海に横たわる先代の亡骸の脇で、 あたしは泣き喚いていた・・・気が狂いそうだった・・・いや、その時にはもうおかしくなっていた のかも知れない。自分の中で何かが壊れたような感じだったからな・・・」 残酷な事実だった。 デスは、それを吐き捨てるように言う。 そして、暫くの沈黙の後に目を開けて、再び遠くを眺めるような目付きになる。 「あたしは先代の亡骸を引き摺って、さっき行ったあの洞窟まで戻ってきて、土の中に埋め た。その日から、先代の大鎌と髑髏の面を身に付け、あたしは死神になった・・・先代が亡くなっ た以上、そうするのが当たり前だと思ったし、この世界の生命の均衡を保つには、死神の存在 は必要不可欠だと・・・形はどうあれ、あたしはそうして死神の“仕事”を引き継いだ・・・」 一層、デスの表情に翳りが懸かる。 「それからと言うものの、闘いを挑んで負けた相手の首を刈り続けてきた。命乞いをしたり、逃 げ出した奴は放っておいたがな・・・しかし、先代から真面に伝授された訳ではないから、正式 な“仕事”がどういったものかは解らないままだ。何故だか知らんが、先代は“仕事”の最中には 立ち合わせてくれなかった。だから、先代の残したいろんな書物を読み漁り、幾度か見た闘い での記憶を頼りに、あたしはあたしなりの我流で死神を続けていた・・・その結果が、あの髑髏 の山なんだ」 ハイエロファントはただ、綿に水が染み込むように、彼女の話を聞いているだけだった。茫然と したまま、少女の横顔を見詰めている。 「しかしいつからか・・・」 僅かの間が空く。 「そう・・・そんな日々の中で、いつしか自分の中に変化が表れた。もうひとりの自分が存在す るような、そんな感じだ・・・そいつはあたしに問い掛ける。『このまま死神を続けていいのか？』 『お前は間違っているんじゃないか？』とな・・・それに対してあたしは答える。『あたしは死神に なる為に生まれた』『これがあたしの遣り方だ』・・・そんな自問自答の繰り返しが、毎日毎日続 いてた」 自嘲気味に唇の端を上げ、少女は短く息を接ぐ。 物憂げな表情が少しだけ柔らかくなるのを、ハイエロファントの目は逃さなかった。 「正直、自分のこんな考え方が馬鹿らしいとも思った。でもな、一方で自分の運命に疑問を持 っちまったことは確かだ。死神を続けながら、反面それに背を向けようとしていたという、ジレン マな訳だな・・・」 その後に一瞬、彼女の瞳が、堅い意思に漲る色を帯びる。 「それでも最終的にはひとつの結論に落ち着く・・・死神であることが、あたしの存在する理 由・・・死神の運命を受け入れることが、あたしの生きていくすべて、だとな・・・」 そこまで語ると、デスは立ち上がって、冷気漂う泉に近寄った。 少年はその一挙手一投足を目で追い、ゴクリ、と唾を飲み込む。予想し得なかった内容の話 が次々と表面化し、しかもそれが自己の想像力の範疇を遥かに超越している―――彼は、お のれの裡での収拾がまったくついていないことを感じ取っていた。 水面の辺で、突然彼女が振り向く。 「・・・何故さっきからこんな話をしてると思う？」 ハイエロファントは、向けられた視線に戸惑いつつ、頭を左右にゆっくりと振る。 ふう、と大きな溜め息をついてから、少女は言葉を繋げた。 「七日前、お前がマジカルドロップに掛けた願いは何だった？」 その問いの、数秒の時間の後。 ハイエロファントがいきなり、岩から腰を上げた。 氷塊が、身体の中を転がり落ちる。 彼の両眼が丸く見開かれ、唇が震え始め、そこで初めて結び付いた事実に翻弄されていた。 「・・・ま・・・まさか・・・」 やっとのことで出した言葉に、少年の動揺が溢れている。 デスの両目が、スッ、と細くなり、鋭利な目線を浴びせ掛けた。 「お前は、あたしの悩みや苦しみの元を消し去ったんだよな・・・」 彼女の棘を含んだ台詞が、ハイエロファントに容赦なく突き刺さる。その言葉の陰には、深く秘 められた重い感情が込められていたのであった。 「そう・・・お前の願いは叶った・・・あたしは・・・」 そこで、語りが停まった。 沈黙が始まる。 ほんの十数秒だったかも知れない。しかし、恐るべき現実に気が付いた少年にとっては、無限 にも感じられる時間であった。 遂に、それが破られる。 デスが大声を放つ。 「もう死神じゃなくなったんだ！」 振り絞る口調だ。 少女は、今までにない視線を彼に向けていた。気温の低いこの広間の空気を吹き飛ばしそう な、感情の燃え上がっている瞳が少年を捉える。 ハイエロファントと完全に正対したデスは、声を荒げた。 「七日前、お前がドロップに掛けた願い・・・その通りだな！ 確かに根本的原因さえなくなって しまえば悩むことなどないからな！ 問題解決には正しくて最短の方法だと言えるからな！ だ がな、あたしの考えてることが何なのか確かめもせずに、何故勝手にドロップを使ったんだ!?」 ビクリ、と少年は反応する。 死神の少女の声が、一段と甲高くなった。 「まったく・・・マジカルドロップの効果は絶大だな！ あれ以来、血の臭いを嗅ぐだけで眩暈が して立てなくなるし、動物の遺体がちょっとでも目に入ると強烈な頭痛が治まらなくなるし、あの 髑髏の山を見た途端、吐き気が止まらなくなっちまうんだ！ つまりもう・・・死神として生きてく ことは出来ないんだぞ！」 一気に捲くし立て、息を切らす。 「・・・じゃあ何だ、今ここにいるあたしは誰なんだ？ 血を見て気分を悪くしている死神が何処 の世界にいるって言うんだ？ 死をもたらす筈の死神が、死神でなくなっちまった・・・これがどう いうことか解るか!?」 直後、デスは足早に近付き、ハイエロファントの胸倉を掴んで、グイッ、と引き寄せた。 猛烈な憤りを放つ表情が、少年の目に飛び込む。 劈くような大声で、少女が怒鳴る。 「答えろ！ ハイエロファント！ 何故あたしに何の断わりもなくドロップを使った!? 何故あたし に対してドロップを使った!? それがお前の言う、人助けとやらなのか!? それとも死神如きには そんなことどうだっていいのか!? 勝手に願って人助けが出来たお前はそれで満足かも知れん が、あたしはもう目茶目茶なんだぞ！」 途端、デスの膝の力が一挙に抜けた。 少年の胸元を掴んだまま、ガクリ、と全身が崩れ落ちていく。それと同時に、彼女の瞳から堰 を切ったように、涙が溢れ始めた。 一緒に座り込んだハイエロファントの眼前で、デスは彼の目を睨みつけ、最後の力を振り絞る が如く、叫ぶ。 「お前はあたし自身を奪ったんだ！」 その後は、もう言葉にならなかった。 流れ続ける大粒の涙を拭おうともせずに、少女は顔を伏せて、嗚咽を漏らしている。そうやっ てしゃくり上げている彼女は、いつもよりも一回り小さく見えた。 どれくらい、そうしていたのか。 漸く、デスは声を搾り出す。 「・・・どうしてくれるんだよ・・・どうしてくれるんだよ・・・」 少年の胸元から、彼女の咽びが聞こえる。 我慢して我慢して、とうとう我慢しきれなくなった感情が、滝のように放流されている。時には 高く、あるいは低く。 ハイエロファントは、途方に暮れていた。 生まれて初めて自分の行ったことで、人を追い詰めてしまった―――彼女の為に良かれと判 断した行為が、結果として苦痛と悲しみを発生させたのである。 予想外の事実だ。 まさか、『死神』の運命そのものが消滅してしまうとは。 何か物理的な要因で悩んでいるものとばかり考えてきた。だが少女が、自分の背負っている 運命自体にそれほどまでに苦しめられてきたとは、少年の判断を大きく逸脱する現実だ。 彼は、自分の行動論理にある程度以上の自信を抱いていた。また、困っている人を見ると放 っておけない根本からの性格が、生き方に於ける大きな原動力となっている。 彼女にとっては、それが裏目に出た。 デスを、傷付けてしまった。 やがてハイエロファントは、瞼を閉じて、両の拳を痛いほどに握り締めて語り掛ける。 「・・・僕の責任だね・・・ごめんね・・・君をここまで苦しめてしまうなんて、夢にも思わなかっ た・・・謝って済む訳じゃないけど、本当にごめんね・・・」 デスの泣き声が、少し静かになった。 「七日前のあの日、僕の目に映った君は、とても苦しんでるように見えた・・・君自身の何かが つかえて、もがいてるみたいだった・・・それで、僕もいたたまれなくなって・・・だから、君の為に 何かをしたかった・・・ただ・・・やっぱり君に一言あって然るべきだよね・・・僕が間違ってた よ・・・」 穏やかだが、自分自身を断罪する厳しさが、言葉にある。 少年は、目を開けた。 「デス・・・聞いてほしい・・・」 一転して優しい声だ。しかし、濃厚な響きを感じる。 「君は、また死神に戻りたい？」 心の裡に深く染み込む、ハイエロファントの問い。 嗚咽が、止んだ。 「今の君は、僕のせいで死神としての運命を解かれてしまったけど、死神として生きる道はひ とつじゃないと思うよ」 デスが顔を上げて、真っ赤に泣き腫らした目を向ける。しゃくり上げてはいるが、落ち着いた様 子であった。 少年と視線が絡む。 「これから、僕が探してみるよ。君のこれからの生き方を・・・迷惑だとは思うけど、最低限の罪 滅ぼしとして、せめてそれだけは許してほしい。だから・・・僕は・・・」 ハイエロファントの声に、凛とした力が籠る。 「探すよ！ 君のこれからの人生を！ 君が納得してくれる生き方を！」 その言葉を耳にした少女は、驚きを隠せない。 何故この少年は、こんなにも力強い語りが出来るのだろうか。まるで自分自身の問題である かのように、必死で答えを見付け出そうとしている。 彼は、実に真剣な眼差しだ。 「・・・こんなこと言えた義理じゃない、と思うけど・・・君も、希望があったら言ってほしいんだ。 それにさ、一緒に考えてくれたら、きっといい結論が出ると思うし、僕も凄く嬉しい・・・どうか な？」 少女は返答に困った。 その躊躇の色を、ハイエロファントは見逃さない。 「もしそれでも・・・結論が出なかったり、以前の君に戻りたいと思うんだったったら・・・来年の マジカルドロップ大会で、僕が出場してドロップを勝ち取れば・・・あ、でも優勝出来るとは思えな いから、これは厳しいかもね・・・でも、君の為に出来ることだったら何でもするよ。前にも言った けど、それは本気なんだ。信じてほしい」 少年の言葉に、デスは一瞬目線を落とす。 そのまま、軽く頷いた。 「だからあと一年・・・その間にいろいろと提案するから、最終的に君がどうするか決めてほし い。僕はそれを実行したい」 再び顔を上げた少女は、思わず呟く。 「一年・・・」 「一年に限らず、もっと早くに結論が出ればそれに越したことはないよ・・・でも・・・少なくと も・・・」 ハイエロファントの言葉が切れる。 何事かと、訝し気な表情になったデスの瞳が、彼の口許に注がれた。薄桃色の唇が、その奥 に映る。 「勝手な気持ちだとは思うんだけど・・・」 再度、少年は語り、また停まる。 動かない。 少女が、初めて彼の台詞を期待する。 そして次の瞬間、ハイエロファントから発せられた言葉は、このふたりの人生を大きく変えるこ ととなった。 「それまでは・・・ずっと君の側にいたい・・・正直言って・・・もう君から目が離せなくなって る・・・」 茫然、自失。 予想もしてなかった、暖かい想いの言葉。 デスは、全身を硬直させた。 まるで、ハイエロファントの眼差しに縛られているかのようだ。この状態を何と言ってよいもの か。 永い時間に思われた停止が、漸く解ける。 ハッ、と我に返った少女が、見る見る顔を真っ赤に染めていく。驚異的な速度で、まるで身体 全体に広がりそうな勢いだ。 いきなり少年の胸元から手を離し、座ったまま、クルリ、と彼に背を向ける。腕組みをして、短く 息を吐く。 「デス・・・？」 ハイエロファントが名を呼ぶ。 彼女は、何か言いた気に口を動かしたが、声にはならなかった。それを、二、三度繰り返す。 そして遂に、振り切るように言葉を放つ。 「・・・か・・・勝手にしろ！」 デスの声が上擦り、裏返る。 今の彼女に出来る、精一杯の返事だ。 それを確認した少年は、満面の笑みを少女の背中に向けた。見る者すべてに深い安堵を与え る、爽やかで、気持ちの良い笑顔である。 ハイエロファントは、囁くように言った。 「よかった・・・デス、ありがとう」 彼のその言葉と笑みを、死神の少女は背中で感じていた。 段々と、自分の裡が静かになる。視界が広がっていく。 何とも不思議な感覚だった。先刻まであれほど荒れていた気持ちが、彼の言葉を聞いた今、 風のない凪の海原のように穏やかになっている。 心の中のむず痒さを認知しながら、デスは奇妙な雰囲気を覚える。 まるで、何らかの魔術を掛けられたかの如く。 この瞬間。 ふたりの裡に充満していた灰色の澱みは、霧が消散するように失せ、この日から姿を見せな くなったのだった。 その事実はまた、双方に新たなる感情を抱かせる。 かつて澱みがあった心の空間に、今度は互いの姿が存在するようになったのだ。 ここに、ふたりの物語が始まる。
《第三章に続く》
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