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食堂では、朝食の仕度が完了した。
ハイエロファントが裏庭に呼びに行くと、デスは家の背後に聳え立つ深い樹木を眺めていると ころだった。遠く、細い眼差しで見ている。 そして、声を掛けずに立っている少年に、彼女は顔を向けて静かに語る。 「緑の森はいいものだな。風が心地いい」 穏やかで、優し気な表情だ。心底の気持ちで言葉を繋いでいるのであろう。 これほどまでに落ち着いた顔を見るのは、彼にとって初めてのことである。少し前まで触れれ ば切れそうな雰囲気を纏っていた少女とは、別人のようだ。 裏庭に出てから、何があったのだろうか。 少年は、よもや自分が原因だとは自覚していない。 理由はどうあれ、ハイエロファントはデスのこんな表情を見ることが出来て、大きな嬉しさを感 じた。それが彼の顔に描かれる。 死神の少女が向き直り、言う。 「朝飯、出来たのか？」 「あ・・・うん、待たせちゃったね。どうぞ」 そして、食堂まで導く。 ふたりは向かい合って、卓についた。 食卓の上には、幾つかの料理が並ぶ。卵と緑の野菜を炒めた一品、温めた人参に白いソース をかけたもの、芳醇な香りを発する琥珀色のスープ、それと綺麗に切り揃えられた細長いパン、 であった。果実のジャムが入った壜も、皿の傍らに添えてある。 少年が水差しから冷水をコップに注ぎ、デスの前に置く。自分の前にも同様に並べる。 「たいしたもの出来なかったけど、食べてよ」 彼の勧めに、少女はスプーンを握り、目の前で湯気を漂わせているスープを掬い、そのまま口 に運んだ。 直後、口蓋と舌に広がる、表現のしようのない深い味。 「・・・美味い」 デスは、思わず言葉を漏らす。 世辞ではない、本心から出た感想だ。 「ホント？ よかった、そう言ってもらえて・・・本当はもっと煮詰めた方が美味しくなるんだけ ど。時間を掛けて煮込めばもっと濃い味になって、いろんな料理にも合うんだよ」 ハイエロファントは、明るい口調で述べる。 「実はね、結構多目に作ってあるんだ。夕食の時には、もっと美味しいのを出せると思うよ」 少年はそう言うと、より顔をほころばせた。 本当に、屈託のない笑顔だ。 彼は既に、今夜の食事まで視野に入れている。それは当然、少女と夕食を摂ることが希望、と いうことであった。だから尚更、自分の料理を褒めてくれたことが嬉しいに相違ない。 デスはそんな少年を見詰め、スプーンを手にしたままで話を切り出した。 「・・・ハイエロファント、あたしは洞窟へ戻るぞ」 「え・・・」 笑みが消え去る。 余りにも見事な顔の変化。 少女は思わず、口許に笑みを浮かべてしまう。天と地をひっくり返したような鮮やか過ぎる表 情の転換に、本当に可笑しくなったのだ。 「まったく、何て顔しやがる。そんな嫌そうな顔、するんじゃない。何も言えなくなっちまう」 「でも・・・」 「話は最後まで聞け。あたしは着替えを取りに行くんだ。夕方には戻るから、食事を作って待っ てろ」 途端、少年の笑顔が復活する。 「・・・うん！」 大きく息を吸い込んで、頷く。 素直を極めたような彼の反応に、少女は満足そうに呼吸をついた。そして、再び食器を持つ手 を動かす。 ハイエロファントも、つられたように食卓上に目線を動かす。 「いただきます」 一旦、両掌を胸の前でしっかりと握り合わせ、それからフォークを右手に取り、皿を引き寄せ た。 その朝食での会話は、彼らが今まで行ってきた内容よりも弾んだものとなった。それは互いが ―――特にデスが、相手のことを強く想えるようになったからであろう。 また彼女は少年との会話を、楽しい、と感じることが出来ている。その事実は、ハイエロファン トをより深く少女の裡に浸透させることとなったのだ。 デスは、日没に戻ってきた。 夕闇が居座っている森を抜けると、少年の家がある。鬱蒼とした樹々の間の道を、少し速足で 進む。 白い壁が目に入った。 脚の勢いを落とすことなく、少女が敷地内に足を踏み入れ、飛び石を渡る。 突然、玄関の扉が開く。そして中からハイエロファントが、満面の笑みを湛えて出てくる。 「おかえり！」 死神の少女は、驚いて立ち止まった。 まるで帰宅時間が前もって判っていたかのような、素晴らしい一致具合だ。 その謎は、少年が自ら明らかにした。 「書斎から君が見えたんで、出てきたんだ」 なるほど、種明かしをしてみれば何てことはない。 ふたりは家の中に入り、早速夕食を摂ることにした。 朝のスープに加えて、かなり手が込んだと予想される料理が四品、さらに果実酒も用意されて いる。デスは、今まで食べたことのない料理に舌鼓を打つ。果実酒も飲むのは初めてだ。甘い 香りと爽やかな飲み心地のそれに、彼女は良い気分に浸った。 終始、ふたりの笑顔が絶えない。 至福のひとときの後、少女は入浴することにした。彼女は今まで、湯に浸かるという行為をした ことがない。身体を清めるのはすべて泉か、もしくは川の水であった。生まれて初めての体験 に、デスは深い感嘆を覚える。 「湯に浸かるってのは、気持ちがいいものだな」 入浴後、彼女はハイエロファントにそう言った。 少女が湯舟から上がって身に着けたのは、いつもの彼女の服装よりも肌の露出が少ない着 衣だ。無論、背中も開いていない。 この変化からも、デスが少年を意識しているのが判る。当のハイエロファントも、彼女の心遣 いを喜ばしく思った。注文をつけた訳ではないのに自ら行動に移してくれた事実が、彼の感動を 呼ぶ。 そして、夜が更ける。 気が付けば、既に昨日の就寝した時刻を過ぎていた。 昨晩と同じように、寝室にデスが眠ることになり、少年も挨拶の為にそこにいる。 ただ、昨夜と違っていたのは、少女の気持ちだ。 「・・・それじゃあ」 彼の言いかけた台詞に、デスの言葉が被さる。 「待て、ハイエロファント・・・」 「え・・・何？」 優しい表情が、橙色の灯りに映える。 少女は、決断した。 「・・・今夜は、ここにいてくれ・・・」 ハッ、と少年が息を飲む。 思いもよらなかった、彼女の言葉。 心臓が早鐘となる。 絡み合う視線が、そのままで動かない。 「・・・あ・・・でも・・・やっぱり・・・」 漸く、ハイエロファントが口を開く。 その段階でデスは、自分の語りの内容が足りなかったことを悟った。そして、彼の瞳を見詰め ながら言う。 「何も一緒に寝ろとは言ってない・・・眠くなるまで、あたしと話をしてくれ」 少年の表情が和らいだ。 「解った・・・いいよ」 そう言うと彼は、部屋の片隅にあった椅子を引き寄せ、ベッドの傍らに据える。 少年が腰を下ろすのを確認すると、デスは寝床に座り、彼と向かい合う。そしてしっかりと目線 を注いだ。 大きく息を継いだ後、少女が話を始める。 「ハイエロファント・・・泉でお前が、あたしに言ったこと、まだ覚えてるか？」 「もちろんだよ」 軽く頷いて、少年は返答した。 それを見てから、デスが続ける。 「あたしの生き方が・・・死神としての生き方が決まるまではあたしの側にいるってのは、本当 だろうな？」 「何度聞かれても答えは一緒だよ。僕は、君の側にいたいんだ」 まるで呼吸をするかの如く、さも当然の声色でハイエロファントが言葉を紡ぐ。 デスは、ゴクリ、と唾を飲み込み、その質問を口にする。 「なら・・・あたしが死神の役目に復帰した後・・・お前はどうする？」 抑揚を限りなく絞った調子の問い掛け。 少女が、それほど力のない視線を彼の瞳に注ぎ込む。いつもの槍で貫くような眼差しが、今現 在見られない。どちらかと言えば怯えを孕んだ両眼だ。 そして彼女にしては珍しく、緊張が身体を支配していた。 少年はその台詞を耳にして、僅かな時間考える。それから、いつも通り微笑んで答えを出し た。 「僕の今の気持ちを言ってもいいんだけど、ただ、余りに勝手な感情だと思うし・・・」 「構わん。言ってくれ」 上半身を乗り出すかの勢いで、デスは言葉を投げる。 その瞳に、再び活力が宿った。 まるで目に見えない相互作用が働いたかのように、ハイエロファントの目線にも力強さが漲 る。その直後に彼女を見詰めた時には、実に真剣な表情で、そして凛とした声で語り始めた。 「僕は、君の人生を勝手に変えてしまってる。君の真意を無視した形でね。だから、僕のこれ からの人生を懸けたとしても、君の人生を良いものに・・・君の望むようにしてあげたい・・・い や、僕がどうしたい、ってのは変だな。君が・・・そう、君が望む通りにしてほしい。君が進んでい きたい道に行く為に、僕の人生を“使って”ほしい・・・そうするのが当然だと思うし、僕の希望で もあるんだ」 「“使う”って・・・人生にしろお前にしろ、物じゃない。“使う”などと言うな」 軽い嘆息を混じらせ、少女が呟く。 「ごめん。ちょっと表現が悪かったね」 法王の少年は自嘲気味に声を籠らせて言う。 それからデスが、先ほどの彼の発言を裡で反芻し始める。幾度目かの繰り返しの後、彼女は おのれの最も聞きたかった事柄が漠然としたままであることに気付いた。 暫しの沈黙を破り、少女は改めて問いを表す。 「あたしが聞きたいのは、死神に戻ったらお前はどうするんだ、ってことだ」 ハイエロファントの目線が、一瞬下を向く。刹那の間、彼は何かを思考したようだ。 それからすぐさま顔を上げて、口を開いた。 「我儘だってことは百も承知してるんだけど・・・今の気持ちを正直に話すね」 途端、デスが全神経を少年に向ける。 間髪を入れず、ハイエロファントは想いを込めた言葉を丁寧に繋げた。 「君が死神に戻ってからも、僕は君と一緒にいたい」 直後。 呼吸が凍てつく。 少年から、視線が外せない。 デスは、空白となる。 やがてその白さを染めていったのは、ある架空の映像であった。自身の内部で急激に陰影を 増していくその姿に、少女は猛烈な寒気を覚える。同時に、画像が転換していくにしたがって、 拒絶すら感じられる虚無の色が彼女の裡を侵食していく。胸の奥から突き上げるように、それ は内側から殴りつけてくる。 激しい痛み。 遂に、デスは耐え切れなくなった。 「ハイエロファント・・・」 彼の名を呼ぶ。 「お前は解って言ってるのか？ あたしが死神に戻るということがどういうことか！」 少し、声が荒れる。自分の内側の痛覚が言葉に表れた。 そして―――先ほどの映像を言語に翻訳して、少年に叩きつける。 「あたしはいずれお前を死に導くことになるんだぞ！」 対して。 ハイエロファントは、躊躇など感じた様子もなく大きな動作で頷いた。 「うん。解ってるよ」 「・・・どうして・・・解ってるのに・・・あたしと・・・」 少女は、震えている。 眉を寄せて、僅かだが泣き出しそうな彩色で表情を染め上げていた。彼女の内面全域を、少 年の発言への疑問と、同時に得体の知れない感覚が膨張し始める。やがて双方は複雑極まり ない絡まり方をして、デスの裡に無数の触手を伸ばしていったのだった。 不安定さを前面に押し出した彼女に、法王の少年は語る。 「それが死神の役目だからね。僕だっていつかは死ぬ」 微動だにしない眼差しが、少女の瞳に固定される。 「正直、僕は未だかつて、死ぬのを怖いと感じたことはないんだ。幼い頃から教会で行われる 葬儀や法事に立ち会ってきて、昔っから“死は当然来るもの”として認識してきた。死ぬのを怖 いと感じるのは生物としての本能、ってよく言われるけど、僕の場合は多分そんな育ち方だった から、死に対する恐怖心が生まれないのかも知れない」 淡々と、だが確実な口調で、彼は話し続けていた。 それを耳にしているデスの表情は、ゆっくりと通常の状態を戻しつつある。少年の口にする単 語のひとつひとつが、彼女の心を落ち着かせる効果を発揮していたのだった。 更に、ハイエロファントは言葉を編む。 「それに、生まれてきた以上は死ぬのが当たり前だと思う。必ず来るものであれば拒まない。 受け入れるのが当然だよね。生まれて育ち、やがて終わりを迎えて、来世への旅立ちをす る・・・それが命の絶対的な論理だと思うよ。僕はね、デス、そんな大いなる生命の環の一端を 担ってる死神という役目は、もの凄く重要で大変だと考えているんだ。君はその大切な役目を 何年も続けてきた。簡単に出来ないし、誰に出来る訳じゃない。辛いことだっていっぱいあった と思う。だからこそ、僕は君を尊敬する」 「尊敬？」 彼女が思わず聞き返す。 空かさず、法王の少年は復唱した。 「うん。尊敬してるよ、君のこと」 一点の曇りもない、明るい笑顔。 そして、驚嘆の表情のまま固まっている少女に、しっかりとした声色で言う。 「そんな君に出逢えて、本当に嬉しく思ってる。だからこそ、僕は君と一緒にいたい」 再度の、意思表示。 デスは動けなかった。 ハイエロファントの視線、声、その暖かい語り。 すべてが、彼女のあらゆる活動を凍結させてしまったのだ。 その状態のまま、暫しの沈黙が始まった。 何も語ることなく、ただ互いを見詰め、ふたりは永い時間を過ごしてしまう。 それが漸く破られたのは、デスの言葉だった。 「・・・今日は、もう寝る」 少女の発言を耳にして、ハイエロファントは長い溜め息をつく。そして彼女に目線を注ぎ、穏や かに話す。 「そうだね・・・もう、夜も遅い」 彼は立ち上がって、椅子を部屋の隅に戻した。それから昨晩と同じように、扉に手を掛けて開 けようとする。 「でも・・・」 突然、少年が寂寞さを含んだ声色で、背を向けたまま話をした。 「尊敬する、とか言っても、僕はそんな君の運命を勝手に消してしまったんだよね・・・」 何とも申し訳なさそうな、尚且つ自分自身に刃を向けているような口調。 背中を挟んだ向こう側での彼の悲し気な表情が、デスには読み取れた。 「故意に消した訳ではあるまい」 思わず、言葉が唇を突く。 彼女のそれが耳に飛び込んでから、ハイエロファントは重苦しい調子で呟いた。 「そう・・・なんだけど・・・」 まるで災厄の元凶とでも表現しているような、苦痛を感じさせる言い方だ。 デスは、何も言えなくなった。 上手な台詞が見つからない。 「おやすみ・・・」 口にされた少年の挨拶は、荒涼たる空気を含んでいる。 そこからは昨日の夜と同様に、扉を閉めて遠ざかる彼の足音を、ただ聞いてるだけの少女の 姿があった。 そして昨晩と違っていたのは、彼女の気持ちだ。 デスは二、三度と頭を振り、それから俯く。 自分に向けられた彼の語りを、何度も何度も反芻する。自分は何を聞こうとしていたのか、ま た何を少年に求めていたのか―――自分自身がハイエロファントに具体的にどうしてほしかっ たのか、はっきりと答えが出ていない。いや、実はもう解答が出ているが、それを自覚していな いだけなのかも知れない。 いずれは、彼に対して言葉としても表現出来るのだろうか。 解答は未だ知り得ない。 ただ少女の裡には、今、しっかりと一本の芯が通っている。ハイエロファントへの明瞭な感情 が、彼女自身を支えているのだ。 そしてそれは、翌朝目覚めたデスの中にひとつの決断をもたらす。深い眠りに入る彼女は、ま だそのことに気が付いていなかった。 その日の朝は、いつもよりも光が眩しかった。 ハイエロファントはいつものように、炊事場で朝食の仕度をしている。二人前の食事を作るの にも慣れた。 少年は幾度も扉の方に目線を投げ、何度か手を停める。 落ち着かない。 彼は、デスを呼びに行くべきかどうか迷っていた。女性の寝ている部屋に、理由はどうあれ入 っていくのは気が退ける。更にそれが元で彼女を怒らすのは、最も自分の本意でないからだ。 その判断がつかないうちに、扉が動く。 室内に入ってきた少女の穏やかな笑みを目にして、こちらの顔も自然とほころぶ。 「おはよう！」 昨日の朝より、声が跳ねた。 彼女は、軽く首を上下に振る。 それから、安心して料理を続けるハイエロファントの背中に、扉を閉めながらデスは話し掛け る。 「今日、何か都合があるか？」 再度、彼の手が停まった。 「え？ いや、別にないけど・・・」 「そうか・・・なら、頼みがある」 彼女の台詞に、法王の少年は振り向きながら問い返す。 「何？ 僕に出来ることなら何でも・・・」 「いや、お前にしか出来ないんだ。頼む、あの山の洞窟まで一緒に来てくれないか？」 少女の、実に真摯な瞳が煌く。 魅入られそうな眼差しに、ハイエロファントの胸が熱くなった。紅玉のような鮮やかな目の色 ―――幾度も見詰めてきた彼女の両眼が、今はより以上、綺麗と感じられる。 少年は大きく頷き、笑顔を浮かべて返事をした。 「解ったよ。じゃあ、朝食の後に出かけようか」 ハイエロファントは、法王の正装に黄金色の短い杖、そしてデスはいつもの紺色の革製着衣 にローブ、愛用の大鎌を携えた格好で洞窟に向かう。 そこに到着したのは、太陽が真上に輝く頃だった。 洞窟の入口は、ひとり分ほどの狭さ。 少女が、ブルッ、と大きく身震いした。翳りが貼り付いた表情が彼女から拭えそうにもない。 「その調子じゃ中に入るのは危ないよ・・・無理して入らないで、ここで待っててくれる？」 少年が顔を覗き込み、心配気に声を掛ける。 デスは息を短く継ぎ、はっきりと言葉を発した。 「いや、入る。あたしが言い出したことだ」 それを耳にしても尚、ハイエロファントの気懸かりは治まらない。以前この洞窟に入った彼女 がどういう状態に陥ったか、目の当たりにしているから尚更だ。 少女が、身体を暗闇に滑らす。 法王の少年も慌てて続く。 急な下りを降りていく最中に、彼は灯りの魔法を使っていた。光の奔流が、闇を薙ぎ払う。 通路に降り、ふたりは真っ直ぐに進む。程なく、広間の入口に着いた。 デスが少年に、一緒に来るように言った目的地だ。 既に彼女からは血の気が失せていた。ハイエロファントは再度、少女にここを立ち去るよう申 請するつもりで声を掛ける。 「やっぱり、君は戻った方が・・・」 「くどいな。最後まで見届けなければ、あたしは何の為にここに来たんだか判らん」 彼女の台詞も道理だ。とは言え、顔面蒼白の少女に同行を勧められるものでもない。 「・・・いいから、あたしのことは構うな。それよりも、本当に、頼む、ぞ・・・」 息が上がってる。 それでも未だに躊躇するハイエロファントを尻目に、デスは先頭切って歩を進める。 少年も、すぐさま後に続いた。 魔術の灯りに、夥しい数の髑髏が浮かび上がる。これを見るのは、少年は二度目だ。判って いたとは言え、やはり気分の良いものではない。 そして彼が、もう一歩進み出た途端。 突然、傍らの少女に猛烈な変化が襲いかかった。 大鎌が手から離れる。 カラン、という乾いた音と同時に、彼女が膝から崩れ落ちた。胸元を押さえ、ぐうっ、と呻き声を 上げる。両目が正円に近く見開かれ、汗が滝のように噴き出し、苦痛が全身を隈なく駆け抜け る。 強度の拒絶反応だ。 「デス！ しっかり！」 ハイエロファントは屈み込み、少女の肩に手を触れようとした。 「構うな！ 早く・・・早く、頼む・・・」 彼女が、地面を睨んだまま言い放つ。 それを聞いた少年は、悲しそうに頭を振った。 デスを苦痛に追い込んでいる原因は、自分が造った。それに苛まれている彼女を、どうして見 捨てることが出来ようか。例え本人が、構うな、と言っているのであっても、彼には不可能な行 動であった。 それと同時に、少年の裡に湧き出してくる感情。 デスへの愛しさ。 理屈などでは御しきれない、彼の想い。 それが、行動となった。 ハイエロファントの左腕が、デスの背中に回る。ハッ、とそれに気付いた少女を、思い切り抱き 寄せた。 時が、停まる。 自分の頬に、彼の温もりが伝わってくる。背中の腕には、痛いくらいに力が籠っている。その 段階になって漸く、少女はおのれに何が起こっているのかを理解した。 ふたりの心臓が、鼓動を高める。 暫くは、彼女の苦痛が去った。 「君を治すことが先だ。君の頼みは、それからやってみるよ・・・だから・・・じっとしてて・・・」 少年の優しい囁きが、直接耳に流れてくる。 ほぼ同じくして、彼の左掌が鮮やかな白色光を放つ。そして綿に吸い込まれる水のように、デ スの身体に染みていく。雪崩の如く全身を覆い尽くす、その光―――法王の少年が持つ能力 『聖なる力』による治癒魔法であった。 先刻までの苦しさが、嘘のように消える。 すべての煩いが姿を隠した頃、今度は少年の右腕が上がる。黄金色の杖が、キラリ、と弧を 描く。 「天と地に満ちる聖なる力よ！」 真っ直ぐに上を突いた杖を見据え、ハイエロファントが高らかに言う。堅固なる芯が貫かれた 素晴らしい声だ。 「亡骸を土に還し、魂に安らぎと父なる神の加護を与え給え！」 直後、驚くべき光景が展開された。 その空間が、目も眩むものとなる。白い光が爆発したように広がり、ふたりをも巻き込んだ。 地鳴りが轟く。 凄まじい光量に漸く目が慣れてきた頃、白い空間で劇的な変化が繰り広げられる。あの夥し い数の髑髏の山がその形を崩し、砂となって流れ落ち始めたのだ。髑髏がひとつ、またひとつ と、次々に大地に還っていく。 そこにあったすべての髑髏は、僅かな時間で消滅した。 続いていた地鳴りが治まり、光が一旦小さくなる。そして、再び何かを解放したかの如く、白色 の輝きの渦となって新たに登場した。 途端、それは大きなうねりを起こし、一本の光の柱へと変わる。そのまま天井に突き刺さり、 猛烈な勢いで吸い込まれていく。まるで見えない力に引っ張られるように、純白の光は姿を消し た。 静けさが、戻る。 永い沈黙の後、今まで茫然とそれを見ていたデスが、感慨深げに、少し寂しそうに呟く。 「・・・これで・・・今までのあたしは終わった・・・」 そして右手を少年の背中に回し、ギュッ、と服を掴んだ。 未だ彼女を抱きかかえたままのハイエロファントは、その仕草に驚いて少女を見詰める。それ から、安心したような微笑を浮かべ、より左腕に力を込めた。 ひとつが終わり、ひとつが始まる。 死神の少女は、ここに新たなる人生を踏み出そうとしていた。 ふたりはその後、泉の洞窟へと足を向けた。 デスが住居としていたそこは、冷たい空気が心地良い空間だ。そして奥にある大きな泉は、 自身の安らぎを得る為の、彼女にとって大切な場所である。 泉の淵に、少女は立った。水面に目線を投げ、穏やかな表情を湛える。 ハイエロファントは彼女のすぐ後ろ、乳褐色の岩に腰を下ろしている。彼は真っ直ぐに、デスの 背中を見詰めていた。 「決めたぞ、ハイエロファント」 「え？」 突然の言葉に、少年は思わず声を上げる。 少女は、くるり、と踵を返し、彼に視線を注ぐ。 「あたしは、死神に戻ることにした」 それを聞いて、一瞬だけ間が空いてから法王の少年に笑顔が浮かぶ。 「決めたんだ？ よかった、一安心だよ」 「やはりそれが一番間違いない選択だ。あたしは死神になる為にこの世に生を受けたんだか らな。最良の選択・・・というよりも、あたしには死神しか出来ないと考えてる」 僅かに目線を下に向け、すぐに顔を上げてきっぱりと言い切った。 その後、一歩だけハイエロファントに近寄ってから口を開く。 「あたしの意思は固まった。後は、お前がどうするかだ・・・」 対して少年は、微笑みを表したままで彼女に視線を繋ぎ止めた。そして、自分の気持ちをひと つひとつ形にするかの如き丁寧さで、言葉を紡ぐ。 「僕がどうするかは、もう決まってるよ。君が進もうとする道を切り開いて、その道を歩き続ける ように・・・君が死神に戻るんであれば死神に戻る為の方法を探して、死神に復帰した後も、ず っと続けていけるように手助けしたい・・・それが僕の気持ちなんだ」 「そうか・・・」 満足気に頷く少女は、小さく息を漏らす。 その直後、デスの表情が転化した。僅かに眉を寄せて、思考を巡らしているような顔に変わ り、視線を落として口許を微かに動かしている。何かを言いたそうに、一瞬だけ少年を見てから 再び瞳を逸らした。 ハイエロファントはそれを見詰めながら、微笑んで次の言葉を待つ。 「・・・それとだな・・・」 漸く、彼女の唇が開く。 「もうひとつ、あたしからの頼みがあるんだが・・・」 「何？ 何でも言ってみてよ」 それから少女は、まだ発言しづらそうな雰囲気を纏った状態で、数回頭を掻く。 やっと、たどたどしいながらも口を波打たせた。 「・・・その、何て言っていいか・・・つまりはだな、まあ、何だ・・・お前の命をあたしに預けろ、っ てことなんだが・・・」 少し、照れくさそうだ。 「お前はあたしの生き方を、これから見付けると言ったな。死神に戻ってからも手助けをする と・・・もしその途中で、お前の命が何らかの危険に晒されて、挙句に失われることにでもなれ ば、あたしはどうしようもなくなる・・・死神に戻れば、いずれお前をも導かなきゃならんだろう。だ が・・・他の誰かがお前の命を脅かして奪ってくのは、正直言って嫌だ・・・」 一瞬の躊躇。 そして即座に、きっぱりと言う。 「お前の命は、あたしの手で導いてやりたい！」 何という、力強い口調。 ハイエロファントは目を見開き、デスに視線を注ぐ。 少女が、続けた。 「死神が命を預かるなんて、本末転倒で笑い話にしかならんかも知れんが・・・今のあたしは、 本気でそう思ってる。だから、その・・・あたしがそうしてる間、お前は死神に戻る為の方法や、 死神としての生き方を探し出して教えてくれ・・・」 彼女の眼差しが優しく、少年を捉える。 暖かい想いが、交わされる目線に乗っていた。 「あたしの人生は、お前に預ける。その代わり、お前の命を、あたしに預けてくれ」 静かで、深い言葉。 それからデスは語りを止め、ハイエロファントの返答を待った。 少年は、まるで複雑な問題を全部解き明かしたような、晴れ晴れとした笑顔になっている。過 去にあったような、どうしたらいいのか判らない灰色の澱みは最早存在しない。彼の裡には、澄 み切った青空が広がっていた。 「よかった・・・僕に罪を償わせてくれる機会をくれるんだね。ありがとう」 「罪？」 「ほら、僕がドロップを使って君の運命を・・・」 彼が言葉を繋げようとしたのを、少女は割って止める。 「そのことなら、もういい」 疑問を顔に浮かべた少年に向けて、デスが不敵な笑みを湛えて言う。 「やっちまったことは仕方がない。それよりも、これから先だ。過去に囚われてるようじゃ未来 は開けないからな」 ハイエロファントの中を、清廉な風が駆け抜けた。 身体の隅々まで染み込んでくるそれが、大自然の浄化作用の如く、今の彼に貼り付いていた 黒い煤を洗い流していく。 何より、自分が罪悪だと思ってきた現実を、彼女が寛容な心で受け入れてくれたその事実が 嬉しかった。そして、本当にありがたかった。 「・・・解ったよ。僕の命でよかったら、預かっててくれるかな？」 「ああ！」 彼の答えに、破顔一笑。 デスが、嬉々とした満面の笑みで頷く。 それを目の当たりにしてから、ハイエロファントは腰を上げ、一歩前に足を進めた。少女と向か い合って、彼は言葉を口にする。 「ひとつ、確認しておくけど・・・」 「何だ？」 きょとん、とした表情で彼女が問い返す。 「僕とは永い付き合いになるかも知れないけど・・・それでもいい？」 恐らく、少年にとっての最終確認だ。 口許に微笑を浮かべて、デスが明答する。 「お前はあたしの人生を預かるんだろ？ だったら、とことんまで付き合ってやる。お前こそ、 簡単にあたしから離れようなんて思わないことだな」 ハイエロファントに、安堵の笑みが宿る。 そしてすぐに、言葉を返した。 「思わないよ、そんなこと。僕はね・・・君と一緒にいられれば嬉しいんだから」 真摯な、目線。 デスの頬に赤みが差す。 それから照れた笑顔で、呟く。 「・・・言いやがる」 心底、嬉しくなった。 暫くしてふたりは、互いに何の合図をするでもなく、肩を並べて外に向かって歩き出す。双方 の腕が触れそうなくらいの極めて密接した距離で、ゆっくりと、噛み締めるように。 最早、ふたりの間にわだかまりは存在しない。 少年が少女の運命を変えたことで起こったこの出逢いは、それ自体が新しい運命となって、 ふたりの間に橋を架けた。素晴らしく堅固な橋を、である。 デスとハイロファントの人生は、ここに一本の道となった。 彼方に伸びていく、真っ直ぐな道。 何処に辿り着くのか解らない。 しかし、ふたりは思っていた。どういう場所に行こうとも、一緒にいる限り心配も恐れもない― ――共に歩んでいく為に選んだ相手に間違いはない、と。 デスは、ハイエロファントを想う。 ハイエロファントは、デスを想う。 新たなる物語が、幕を開けた。 やがて見えてきた洞窟の出口が、ふたりを迎える。 鮮やかな光に、包まれた。 |
