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雷鳴が轟き、凍てついた風が天空を翔ける。
平和な雰囲気に包まれたこの世界に相応しくない、重苦しい黒雲が垂れ込め、時折増長した かのように膨れ上がる。何とも禍々しい力の奔流が、空中のすべてを押し潰すが如く勢いで怒 り狂っていた。 その下、険しい山々が間近に見える草原に、黒褐色の巨大な岩盤で構成された小高い丘が ある。更にそこの頂に、古城が聳え建っていた。冷たい灰色の壁が、何者も寄せ付けない隔世 感を放つ。 今、この城の大きな広間で、何かが繰り広げられている。 魔力の激しいぶつかり合い。 それはふたりの人影が行っている、質の相反する魔法の壮絶とも言える闘いであった。 ひとりは少年である。 このマジカルランドの『法王』、ハイエロファント。 彼は眼を、キッ、と見据えて、黄金色の短い杖を振り抜いて唱えた。 「ミラクルビーム！」 杖から迸る光が、一直線に飛ぶ。 それを目の前の女性は事も無げに左手で受け、瞬時に消滅させていた。まるで蚊でも潰すか のように、鼻で笑いながら腕を振る。 燃えるような赤い髪―――その髪型も、まるで炎を模した様相であった。漆黒の着衣を少しだ け返し、じろり、と少年を睨む。 「甘いねぇ・・・」 低音を含んだ声で、女性は呟く。髪と両腕、手首、耳に銀色をした金属製の輪を装飾して、肌 は雪のように白い。 「そんなちゃちな魔法で、わらわが倒せると思ったのかえ？ そなた如きの魔力では、わらわ に傷ひとつ負わせることなど出来ないぞよ・・・」 「・・・これ以上、マジカルランドのみんなを苦しめることはさせない・・・例え刺し違えようとも、 君を止めるよ・・・」 ハイエロファントが言い返す。透き通った声だ。しかし、それには驚くほど力強い意志が漲って いた。 女性は口許を歪めて嘲笑したかと思うと、右手をゆっくりと少年に向けた。さらに低い声で言葉 を放つ。 「・・・いくよ・・・覚悟しな」 ゴオッ、と魔法風が湧き起こる。空気振動が低い周波の音を撒き散らし始め、凄まじい魔力が 女性の右掌に集中していった。 杖を正眼に持ち、ハイエロファントは来る魔法攻撃に対して身構える。どれほど強力な魔術が 発動するのか、彼は底知れぬ恐怖をも感じていた。纏っている白地の法衣の中を、汗が伝うの が判る。 「ダークホイール！」 女性の口から、明瞭な呪文が放たれた。直後、激しい振動を伴った魔力の渦が、彼女の右掌 からハイエロファントに襲いかかっていく。猛烈な縦回転の竜巻だ。 法王の少年が、渦の向かってくる直線から身体を躱す。 だが、それは蛇のように大きくうねる。避けようとした彼の動きを目で追っているかのように、 狙いをつけた生贄を逃がすことはなかったのだ。一瞬にして少年を飲み込む。 絶叫が上がった。 全身を四分五裂されそうな激痛を覚え、ハイエロファントは力が抜けていく感覚を味わってい る。 それを確認すると、女性は満足そうに笑う。残忍な笑みを口許に湛えたまま、ゆっくりと少年に 近付いていく。 「終わりだねぇ・・・」 ハイエロファント床面から上半身を起こして、目の前の人物を見る。それ以上身体に力が入ら ない。彼はその言葉を、思考能力の薄れた頭でぼんやりと聞いた。 ニヤリ、と笑った女性の右腕が挙がる。再び魔力がそこに集まり、魔法風が湧き上がった。 少年は反撃する力も、防御する気力も失せてしまったかのようである。腰を下ろしたまま、茫 然と目線を前に投げていたのだ。 呪文を唱えようと、女性の口が動きかける。 刹那、突風が駆けた。 強烈な殺気が、女性の首筋に向かって弧を描く。ハッ、とそれに気付いた彼女は呪文の詠唱 を止め、素早く身を翻した。その空間を、銀色に光る大鎌が薙ぐ。 「おのれ何者じゃ！」 女性は殺気の方向を凝視して叫ぶ。 そこには、先ほどの大鎌を手元に構え直し、不敵な笑みを浮べた少女が立っていた。しかし目 は笑っていない。獲物を見るような目付で、こちらを睨んでいる。 「・・・しくじったか・・・」 彼女が口を開く。 その声にハイエロファントは、ビクリ、と反応し、正気に戻った直後、少女を見て名を呼んでい た。 「・・・デス！」 名を呼ばれた女性は、彼に顔を向けてから唇の端を軽く上げて笑う。 「こいつの首は、あたしが貰う」 デスは言葉を返す。 『死神』である彼女は、命を狙った相手の首をその大鎌で刈るのが“仕事”であり、本人は、そ れが生き甲斐だ、とも言っていた。その対象は老若男女、哺乳類に属するすべての生物を問わ ない。相手が強大な魔力を持つ者であろうと例外ではない。 「ほう・・・わらわの首とな。愚かな」 紅髪の女性が、デスに向かって言う。魔力の波動は、相変わらず彼女の周りに漲っていた。 「死神如きが、わらわの首を狙うとは・・・その無謀な度胸は褒めてやるが、それだけでわらわ に勝てるとでも思ったか？ そなたも、よっぽど早死したいと見える」 「一万年も生きてりゃ、もう充分だろう？ フォーチュン・・・女神だろうが何だろうが、あたしか ら逃れられると思ったら大間違いだぞ」 デスが向き直り、言葉を放つ。 フォーチュンと呼ばれたその女性は、死神の少女を見下すように、スイッ、と首を上げた。まる で、さあ首を取ってみろ、と言わんばかりだ。 真の名をホイール・オブ・フォーチュン―――別名『運命の輪』と呼ばれる彼女は、マジカルラ ンドの民の運命を読み、それを左右出来る能力を持つ。齢一万歳を超えるという女神で、世界 創世に匹敵する古の時代から、魔術や魔法を操るこの世の存在すべての頂点に君臨してきた のである。 しかし、彼女を私欲へと導く代物が、四百年ほど前に誕生した。 それが『マジカルドロップ』。 マジカルランドの『天空の女神』ワールドが創り出す、驚異の力を秘めた飴玉だ。このドロップ には、何と“どんな願いも叶えることが出来る”魔力が込められており、世界の民すべての憧れ であった。 これを手に入れる為には、年に一度開催される『マジカルドロップ大会』に優勝しなければなら ない。その為、毎年大勢の参加者が集う。 二百年ほど前、フォーチュンがドロップを強奪し、逃走しようとした事件があった。だが、早くに これを発見したワールドとの激闘の末、フォーチュンは敗れ、自我と欲望を封じられるという罰を 受ける。それからは、暫く穏やかで平和な日々が続いてきた。 ところが今年、そのフォーチュンが封印を破り、かつての復讐とばかりにワールドに闘いを挑 み、彼女を倒してしまった。そして、ドロップを強奪して古城に籠り、おのれの欲望を叶えんとし た。 しかし、予め万が一に備えていたワールドは、マジカルドロップ自体とそれを入れてある壜に 防御魔術を施しておいたのである。強大な魔力を誇るフォーチュンとは言え、対抗魔法に於い てはワールドの方が上手であった為、甘美な代物を目の前にして地団駄を踏んだ。 そしてフォーチュンは一計を案じる。尊厳を踏みにじられた彼女が、これで終わる筈がなかっ た。 何と運命の女神は、マジカルランドの民の魔力と生命力を、自分に集め始めたのだ。これは、 ワールドの施術を打ち破る為に、おのれの力を更に高めていく策であった。 これによって、世界に様々な不幸が起こり始めた。 魔法使いと魔術を生業とする者が力を次々と失い、一般の人々でさえも生命力を吸われて活 気を出せない。ひとり、またひとりとフォーチュンの標的になり、生きてるのか死んでるのか判ら ないような民が街中に溢れていったのだ。 彼女を打ち倒そうと多くの挑戦者が闘いを仕掛けたが、いずれも敗北する。 そして、現在。 この事件を起こした張本人を漸く捜し当てたハイエロファントと、二週間ほど前に異常事態の 原因を彼に問うたデスが対峙しているところであった。 運命の女神は、少しだけ感心したような目線を少女に向ける。 「この城にはわらわの魔力網が張り巡らされておる。如何なる侵入者であろうと、ここに来るま でに察知出来る筈なのだが・・・それを掻い潜ってわらわの前に来るとは、そちもそれなりの魔 力を秘めておるのかえ？ だとすれば大したものぞよ」 「・・・そんなことはどうでもいい」 さも関心がなさそうに、デスが呟く。 フォーチュンが居城としているここには、罠の類こそないものの、魔力を持つ者は全身が震え て動けなくなるほどの不気味な空気が満ちている。それは彼女ひとりが放つ、余りにも膨大な 力が醸し出す現象であった。現に、ハイエロファントがここまで来る時も、城の中は大して気温も 低くないにも拘らず寒気が治まらなかったのだ。 その魔力が、侵入してくる者の情報を女神に伝える役割もしている。 だが、死神の少女にはまったく反応しなかったらしい。 いずれにせよ、デスが眼前まで来たことは動かせない事実。それ故に、フォーチュンは先刻の 発言をしたのだった。 「デス・・・君もフォーチュンを倒すのが目的で、ここに？」 ハイエロファントの問いに、少女は彼に目線を向けて答える。 「・・・あたしの目的は、こいつの首だけだ。それさえ果たせれば、ここに用はない」 言い終わった後、デスの様子が一変した。 不敵な笑みが消えている。 彼女は、一瞬視線を宙に泳がせた。無意識のうちに何かを実感したのだろうか。 視線が定まっていない。 ふたりが初めて出逢ったのは、ほんの二週間前のことである。それからの彼女の表情や仕 草、その時々の会話を、ハイエロファントはすべて覚えている。特に初めて逢った際に見た、何 かが奥に見え隠れしているような紅色の瞳が印象的であり、少年は強く魅了された。 そして今の少女は、新たなる情報。 おのれの裡の何かに、彼女は動揺している様子だ。 （・・・どうしたんだろ？・・・何だか今言ったことに納得がいってないような・・・） 疑問が、横切った。 ハッ、と突然に、法王の少年はあることを思い出す。 先週逢った時に耳にした、彼女が漏らした発言。 その直後に本人が否定し、尚且つ忘れろとまで言った台詞。 理由は解らないが、それが今の少女に自然と重なっていく。 （もしかしたら・・・デスがここに来た目的は・・・） ハイエロファントの中に、彼女に対する探究心が芽生える。今まで以上の熱い視線を注ぎ、そ してとうとうデスから目を離すことが出来なくなった。 「無駄なことじゃ・・・わらわにそのような武器が通用するとでも思うたか？ そんなにこの首が 欲しいかえ？」 デスが、キッ、と睨み返して言葉を繋げた。 「首を刈り続けることが、あたしの運命だからな」 「ほほお・・・これは面白い。わらわの前で運命を語るとはのう！」 鼻で笑いながら、運命の女神は言い放つ。 それから急に、不思議と優し気な眼差しを向けて、しみじみとした口調で語りかけた。 「のお、デスよ・・・そなたは自分の運命を受け入れ、それに従って生きてきた・・・わらわには 解るぞよ、そちの気持ちが・・・」 ビクッ、と死神の少女の肩が跳ねる。 そしてすぐに、彼女がフォーチュンの言葉に返したのは、拒絶と否定であった。 「お為ごかしは止めろ。あたしの気持ちなどお前に解る筈がない」 「・・・そうか・・・ではどうかの？ そなたはわらわの魔法網を抜けてきた実績もある。わらわの 従者にしてもよいぞよ。それにそこにいる法王も、なかなかの魔力の持ち主であるからのう・・・ お主らふたりとも、我が下に来るがいい・・・さすれば、そち達の望むがままの運命を授けてやろ うではないか。悪いようにはせん」 「黙れ！」 鋭利な切れ味の、デスの一喝。 空気が音を立てて張り詰める。 一瞬、気分を害したかのように僅かに眉を寄せて目線を返し、女神が語りを続けた。 「死神よ、わらわにはお主のこれからの運命が手に取るように判るぞよ・・・のう、お主は本当 に自分の運命を変えたいとは思わぬのか？」 デスの瞳が、見開かれる。 ハイエロファントは、思わずフォーチュンに視線を投げる。 暫しの間を置いてから、搾り出すような声で少女が言う。 「・・・あたしは、この運命を受け入れる・・・ただ・・・それだけのことだ・・・」 「無理はせんでよい。わらわは“運命の輪”なのだからのう、お主の運命を変えることなど容易 いことよ。さあ・・・どうする、死神のデスよ？」 フオーチュンが残酷な微笑を浮かべる。 その言葉を聞いた途端、デスの表情に新たなる変化が表れた。 翳りが滲む。 はっきりと、ハイエロファントには判った。 彼女は顔を伏せ、目線を足元に向ける。グッ、と大鎌を握る両掌に力が込められる。口許が、 キュッ、と結ばれる。 デスの、おのれの運命に対する思いが、その表情や態度に表れている―――彼は、そう直 感した。そしてそれは、次に少女の唇から漏れた言葉で、確定する。 「血塗られた、あたしの運命・・・」 何とも、寂しそうな、悲し気な口調。 ハイエロファントは彼女に声を掛けようと、思わず身体を起こした。真っ直ぐに見詰める。 しかしその直後、腹の底から突き上げるような大声で、デスが叫んだ。 「お前如きに簡単に変えられるものか！」 言い終わると同時に、彼女は床を蹴った。縮まったバネが解き放たれたように、一気に女神と の距離を詰める。 大鎌が、キラリ、と弧を描いた。 フォーチュンの身体は、既に軌道上に存在しない。 デスが翻る。女神が身を躱した直後に、自分も同一方向に跳ぶ。二度、三度と距離をとろうと するフォーチュンを、死神の少女は執拗に追った。 女神の右掌に魔力が溜められる。途端、デスの大鎌が宙を薙ぐ。慌てて身体を返して、殺意 の刃から逃れた。 少女の動きは、通常の動体視力では捉えることが出来ない。あれだけの大鎌を武器にして の、尋常でない敏捷性での攻撃は、観る者に驚きを、攻撃を受ける者に恐怖を感じさせるのに 充分だ。 （凄い・・・これがデスの闘いか・・・） 本来は非戦闘主義のハイエロファントですら、芸術とも言える彼女の闘いに、ある種の感動を 覚えている。 フォーチュンは呪文はおろか、魔力を集中させる暇すら与えられていない。 そして遂に、彼女は平衡を崩して大きくよろめいた。 「もらったぁ！」 好機とばかりに、デスの大鎌が煌く。 直後、激しい金属音が響いた。 「なっ・・・！」 死神の少女は声を失う。自分の武器が、女神の首筋の右横で、彼女の右腕によって停止して いた。いや、正確には、女神の右腕に装飾されていた銀の腕輪に、である。刃と水平に当てら れた腕輪は、キシキシと音を立てて軋んでいる。 一瞬だが、デスは我を見失った。 完璧と思われた攻撃を、簡単に防がれてしまったのだ。 その刹那に、すべては逆転された。 フォーチュンの左掌に、鈍い光が走る。魔法風が起こるか起こらないかの一時、大量の魔力 がその力を開放した。 「ダークホイール！」 呪文を唱えながら、女神は左掌を少女の腹部に叩きつける。轟音が空を裂き、縦回転の渦が 彼女を飲み込んだ。 絶叫が上がる。猛烈な攻撃魔法を、ほんの間近で受けたのだ。全身の骨が粉々に砕けんば かりの、痛みを超越した痛みである。デスの身体は、十数メートルは吹き飛んだ。 さらにフォーチュンの右腕が、少女の身体が飛ばされている最中、その軌道上に向かって振り 抜かれる。 「ダークホイール！」 何と、呪文を再び唱えた。 魔力の竜巻が怒涛のように押し寄せる。そしてそれは、デスが床に落ちようとした瞬間、大口 を開けた大蛇の如く彼女に襲いかかったのだ。 情け容赦なく身体が弄ばれ、やがて静かになる。 最早、悲鳴を上げることすら出来なかった。 死神の少女は、倒れた。 フォーチュンはそれを確認すると、寒気のするような高笑いを上げる。彼女にとっては、至極満 足する勝負結果となったからだ。 しかし、その笑いも長くは続かなかった。女神は、おのれの目の前で行われてる出来事に注 意を向けざるを得なくなったからである。 ハイエロファントが、倒れたデスを抱き上げて左腕でしっかりと支え、右掌を彼女の頭部に翳し ている。彼の掌からは柔らかく温かい光が溢れ、目が閉じられた少女に注がれていた。 治癒の魔法である。 やがて彼は、ゆっくりと彼女を床に寝せると、慈しむように暫く顔を見詰めていた。そして静か に立ち上がり、キッ、とフォーチュンを見て言い放つ。 「今度は、僕が闘う」 決意が迸る、しっかりとした声だ。 女神は再度高笑いを上げる。嘲りを、ここぞとばかりに表現していた。 「まだわらわと闘うつもりかえ？ 今のを見ていたであろう？ あれだけの戦闘能力を持つ死 神ですら、わらわに傷ひとつ付けられぬ。しかもそなたは、先ほどわらわと闘って魔力も充分に 残っていないではないか・・・愚かな抵抗はそこまでにして、わらわの許に下るが良い・・・」 フォーチュンはそう言うと、少年を睨みつけた。自分に対する彼の行為に、苛立ちすら感じてい る様子である。 ハイエロファントは、彼女の言葉を黙殺したように、黄金色の杖をおのれの正面に持ってきて 床と水平に翳す。そして額に右手の人差し指と中指を揃え当て、声を凛と張り上げた。 「聖なる力！」 杖が、鮮やかな白い光を放つ。デスを治療した時よりも更に力強く、美しい光の奔流だ。 フォーチュンは、気分を害した。圧倒的な力を見せつけても尚、抵抗を続けるこの少年に、彼 女は激しい憤りすら感じている。すぐさま、それは表情と態度に表れた。 「愚かさもここまでくると、滑稽を通り越して無様だのう・・・」 視線は鋭く、侮蔑の声色が漏れる。 「ならば死ぬがいい・・・そなたの行為、おぞましいわ！」 彼女はそう言い放つと、右掌と左掌、双方に魔力を集め始めた。魔法風が幾度目かの波とな って、女神の周りに溢れ出す。 ハイエロファントは右足を少し後ろに下げ、腰を軽く落とす。移動した脚に重心を乗せ、杖を真 っ直ぐに前に向け、自分の目線の延長線上に据えた。それはまるで、狩人が標的に対して銃を 構えているかのようであった。 そのまま動かない。 何かを、待っている様子である。 フォーチュンが動く。力が漲った両掌を、眼前で重ね合わせた。 ハイエロファントの目が、カッ、と見開かれる。 「ダークホイール！」 「ミラクルビーム！」 間髪を入れずに、両者の呪文が発動した。 女神の掌から、今までとは比べ物にならない巨大な渦が湧き起こる。恐らくは、圧倒的な魔法 で一気に片を付けるつもりだったのであろう。猛り狂った怪物が、咆哮と共に襲いかかろうとす る。 だが、結果的にはこれが仇となった。 少年の杖から光線が迸る。空を裂いて、一直線に縦回転の竜巻に飛び込んでいく。そしてそ れは―――渦の中心部の“目”に当たる部分に突入し、魔力の薄いそこを一気に駆け抜け、未 だに力を放出し続けている女神の掌に激突したのだ。 少年の狙ったのは、この瞬間であった。 渦が、消し飛んだ。 出鼻を挫かれた魔力は、行き場を失った挙句、女神自身に逆流する。 爆発と絶叫が、同時に起こった。 相手を叩きのめそうとして巨大化させた術は、今までよりも大きな“目”を造り出す結果となり、 最終的にハイエロファントの攻撃を易々と通してしまうこととなった。女神は絶対の自信を持って いたが故に、大きな“過ち”を犯したのである。 この場合の“過ち”とは、いわゆる「自意識過剰」を差す。彼の魔法を左手ひとつで消し去るほ どの防御術があるにも拘わらず、それを蔑ろにし、攻撃する為に魔力を集中させた彼女の、明ら かな失敗であった。 魔力の爆発は、想像以上だった。法王の少年の攻撃は、女神の裡に秘めたる力に、決定的 な行動を起こさせるに至ったのだ。 つまり、火薬庫に引火したのと同じである。 暴走が始まった。 フォーチュンは、おのれの魔力に翻弄された。 彼女の足元から、猛烈な魔法風が垂直に吹き上がる。身体のあちこちで魔力が華々しい光を 放ち、次々と爆発を繰り返す。そしてそれが手から離れた風船のように、連続して昇って、消え ていった。 やがて光は、一本の柱へと変化した。 絶叫が、二度、三度と湧き上がる。 「馬鹿なっ！・・・何故！ 何故わらわが！・・・」 彼女は、未だに何が起こったのか理解出来ずにいるのかも知れない。しかし現実は容赦な く、敗北は確実に女神の許にやって来た。 まさかこれほどまでに、あっけなく雌雄が決するとは、当の本人達も予想がつかなかっただろ う。ハイエロファントも、女神の姿が徐々に薄くなっていく様を見詰めながら、驚きの表情を隠し ていない。 幾時ほど、過ぎたろうか。 静寂が訪れた。 大きく開かれた広間の窓から、太陽の光が射し込む。それは真っ直ぐに、フォーチュンのいた 場所を照らした。 「・・・終わった・・・」 ハイエロファントは静かに呟く。 女神の姿が、完全に消えていた。しかし、漆黒の着衣と銀色の輪は床に残っている。 突然、その衣服が動いた。何かが中にいる。 驚いて駆け寄る少年が、屈み込んで凝視する。そして、未だに妙な波を打つ衣服の裾を、恐 る恐る捲って覗いてみた。 赤子であった。 紅の髪が僅かに生えた、女の乳児だ。それが、四肢と身体全体を小さく丸めて、何とも安らか な寝息を立てている。 しばし茫然と竦んだ彼は、漸く声を出した。 「まさか・・・フォーチュン？」 無垢で可愛らしい寝顔の赤子は、ただ眠り続けていた。ハイエロファントは、身体が冷えない ように衣服を肩まで掛けてやる。すると、何かむずがるような仕草を一瞬だけして、再び落ち着 いた様子で眠りに落ちていった。 辺りの静けさに気が付いたのか、意識を失っていたデスが、突然起き上がって周囲を見回 す。頭を数回軽く振ると、漸く明瞭さを取り戻してきた感覚で口を開いた。 「・・・何だ？ 何があったんだ？・・・」 彼女は、まったく状況が把握出来ていない。無理もないことである。 「気が付いた？ 身体はもう痛くない？」 死神の少女に向き直り、ハイエロファントが訊ねる。 その声にデスは、彼の方向に視線を投げて何事もなかったかの如く立ち上がった。そして、自 分の愛用の大鎌を携えて近寄る。 「何だ？ その赤ん坊は？」 少年のすぐ前に横たわる赤子を、彼女も瞳に映す。 そして問いを口にした。 「誰の子供だ？」 「・・・フォーチュンだと、思う」 「フォーチュンの子か。そう言えば、奴は何処へ・・・」 「違うよ。この赤ちゃんが、フォーチュン自身だよ」 直後、デスの顔が驚異の色で支配される。 「・・・馬鹿な」 「信じられないだろうけど、僕にはそうとしか思えないんだ。彼女を倒したら姿が消えて、この 子がドレスの中にいたんだ」 少年の言葉に、デスを再度驚かす内容が含まれていた。 「・・・倒した、だと？」 「うん。僕が、フォーチュンに勝った」 死神の少女はそれを耳にして、大きく肩で息をつくと、さも悔しそうに奥歯を噛み締め、頭を掻 いた。 「そうか・・・お前が倒したのか・・・」 大魚を逃した、そんな表情である。 ハイエロファントは静かな微笑を浮かべ、フォーチュンの衣服の傍らをもう一度見渡す。そし て、側に転がっている小さな壜を発見する。 コルクで蓋をされたその中には、虹色に輝く小さな球体がひとつだけ入っている。女神が持っ ていたものであろう。 「これは・・・マジカルドロップ!?」 少年が、壜を手にして立ち上がる。 彼の声に、デスは思わず近寄った。それからハイエロファントと同じ場所に視線を向ける。 ふたりとも、目を見開いた。噂には聞いていたが、現物を目の当たりにするのはこれが初めて である。 何でも願いを叶えることが出来る―――多くのマジカルランドの民が欲しいと望む、その魔法 のドロップが、遂にハイエロファントの手に渡った。 「お前の望みは、何だ？」 デスが質問する。外交辞令的な質問だ。 少年は、暫く目を伏せて考えていた。 やがて顔を上げ、死神の少女をしっかりと見詰めて、壜を差し出した。 「これは、君に使ってほしい」 対して、デスは僅かの間だけ瞳に虹色の球体を投影させたが、すぐさま視線を背ける。それか ら音程を更に低く籠らせてた声で問いを投げた。 「何故そんなことを言う？」 「最初にフォーチュンと闘ってた時、君が助けてくれなかったら、僕は生きてはいなかっただろ うし、その後も勝てなかった。君のお陰で、僕は今ここにいるんだ。ドロップを手に出来たのも君 のお陰・・・だから、君が使うべきだ。それにさ、僕は個人的に叶えたい望みはないし、君が必 要であればその為に使ってくれればいいと思うんだ」 揺るぎない口調。 真っ直ぐに、優しい眼差しと共にハイエロファントが言葉を紡ぐ。 しかし、それでもデスは受け入れようとしない。 「・・・お前を助けたつもりは微塵もない・・・第一、お前がフォーチュンに勝ったんだろ？ お前 が使えばいい。あたしには必要のないものだ」 そう言い切ると彼女は、すべてを拒絶するかのように顔を伏せた。 法王の少年が少し悲し気に表情を変え、そして再び目線を落とす。 どれくらい、そのままでいたか。 やがて何かを決意した様子で、ハイエロファントは顔を上げて少女をしっかりと見詰める。 「・・・解ったよ。僕がドロップを使おう」 彼の答えを受けたデスが、やれやれと呟きそうな口許になった。 直後、もう用がないと言いた気に踵を返す。 その後ろ姿から目を反らすことなく、法王の少年は手にした壜のコルクを抜いた。右の掌にド ロップを転がす。 それは転がりながら、鮮やかな煌きを放つ。 秘めたる力を感じさせる光だ。 ハイエロファントは、それを摘んだ右手をゆっくりと掲げていく。そしてドロップから視線を離さ ず、大声で言い放った。 「ドロップよ！ 願いを叶えてほしい！」 素晴らしく、張りのある声だ。 「彼女の・・・」 立ち去ろうとしていた死神の少女が、突然足を止めた。 「デスの、悩みや苦しみの元を消し去ってほしい！」 驚愕。 振り返ったデスの瞳は、正円に近いほどに見開かれた。何かを言おうとして、唇を動かしかけ る。 声が出ない。 時間が静止したかに思われた。 しかしそれは、突然の現象によって打ち破られる。 デスの身体が、眩しく白い光に覆われた。全身を隈なく包む、猛烈な光の奔流だ。その中で彼 女は恐慌気味に目線をおのれの手足に飛ばし、自分に起こっている事態を何とか理解しようと している。 だが、少女がそれの答えを見付け出すより早く、発光現象は終息に向かった。 デスの姿が元に戻り、沈黙が訪れる。 未だ彼女は茫然と立ち竦み、両掌をじっと見詰めている。言葉が、出てこない。 ハイエロファントは、ゆっくりと姿勢を直す。正面の女性から視線を外すことなく、穏やかな笑み を浮かべて立っていた。 ドロップは、既に手元にない。 恐らく望んだことを叶え、魔力を開放して消滅したのだろう。 何度目か数えていないが、再び彼の頭の中を、かつて聞いてきたデスの言葉、見てきたデス の表情が大きなうねりを持って巡り始めた。幾度それが回る時に必ず、少年の裡にひとつの感 情が湧く。 悲しさ。 言い知れない、また表現のしようのない悲しみ。 それが、彼女の言動から伝わってきている感じなのだ。 しかも、余りにも直接的に彼の内面にまで訴えかけてくるような気がしてならない。 デスは、苦しんでいる。 それがハイエロファントの出したひとつの答えだった。 そして、マジカルドロップを掴んだ時、彼は決心をする。 何が原因で悲しんでいるかは杳として知れないが、少年はドロップを手にしてからすぐ、これを 死神の少女の為に使おう、と結論付けたのだ。 はっきりとした理由は判らないにせよ、彼女の苦痛の大元を除外すれば―――きっとデスは あのような悲し気な表情などしないで済む。ハイエロファントは、そう思った。 しかし、彼の想像を超える事態が、その直後から起こったのである。 ハッ、と少年は、目の前の変化に気付いた。 死神の少女が、全身を震わせている。顔を伏せ、歯を喰いしばり、無言のまま立ち尽くしてい た。 「デス・・・」 ハイエロファントの優しい声色が、彼女の名を呼ぶ。 それに対して返ってきたものは、怒気を溢れさせて陰に染まった言葉だった。 「・・・何てことを・・・何てことをしてくれたんだ・・・・」 途端、デスの顔が上がった。 今度は少年が息を飲む番だった。 彼女が、両の瞳から大粒の涙を溢れさせている。止め処なく流れ、それを拭おうともしない。 何が起こったのか、ハイエロファントには解らない。初めて出逢う出来事に、彼の内面が徐々 に凍土に覆われ始めた。 その直後、デスの姿が翻る。 少女は、疾風の如く駆け出したのだ。 それを見て、少年はすぐに我に返った。 「待ってくれ！ デス！」 あっと言う間に広間から廊下へと姿を隠した彼女の後ろ姿に、ハイエロファントの叫びが飛 ぶ。すぐさま彼は追って行こうと、開け放たれた扉まで走り寄る。しかしその時には既に遅く、死 神の少女の気配すら、見える範囲にはもう存在しない。彼女の脚の速さは、卓越したものだっ たからだ。 残された少年は、茫然と立ち竦む。 やがて、穏やかな気候に戻ったマジカルランドの風が、開いた窓から大広間に流れ込んでき て、彼の頬に爽やかに吹き付ける。 しかしそれとは裏腹に、ハイエロファントの心には、重苦しい空気と灰色の澱みが次々と増殖 しつつあったのだった。 《第二章に続く》 |
