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それは、デスとハイエロファントが多くの時間を共に過ごすようになって、二ヶ月ほど経った頃
の出来事である。
とある日の午後、ふたりは読書をしていた。 ハイエロファントの家の図書室を兼ねた書斎で、静かなひとときを楽しむ。双方が気に入って いるハーブティーの香りが芳しい。 法王の少年は、隅に置かれた机に向かっている。片や死神の少女は長椅子に腰を下ろし、互 いの本を読むことに没頭していた。デスは歴史の書物を、興味の湧いた項目だけ飛ばし読みし ている。ハイエロファントは、植物生態学の本にじっくりと目線を落とす。かなり対照的な、ふたり の読書方法だ。 驚くほど、ゆっくりと流れていく時間。 それが一気に加速される瞬間が、来た。 少年は本を閉じる。しかし、読み終えた様子はない。何事かを思い出した雰囲気である。 椅子から立ち上がり、少女を振り返った。そして二歩近寄り、後ろで手を組んで長椅子の前に 直立する。 気付いたデスが、書物から目線を上げた。 「どうした？」 普段の声色で尋ねる。宙で、互いの視線が絡み合う。 少年が、少し沈黙した。二、三度唇を動かしかけて止める。彼にしては珍しく、言い出しかねて いる話が存在する様子だ。 「・・・ねえ、デス・・・」 漸く、会話が始まった。 「何だ？」 「君に訊きたいことがあるんだけど・・・」 何となく、声が遠慮している感じを受ける。 少女は、あまりこういった話し方が好きではない。 「随分ともったいぶった言い方だな。まあいい。気にせず話してみろ」 だが、こういった口調も彼らしい、と感想を持ちながら、許可の意を表す。 しかし尚も、ハイエロファントは躊躇している。それはほんの数秒だったろうが、本人には無限 にも思える時間に違いない。何故なら、考えていた内容が彼にとって非常に重要なものだった からである。 しかし遂に―――口にすることを決断した。 「・・・僕と・・・結婚してみる気は、ない？」 停止。 デスは、茫然となる。 暫くの間彼女は、何を言われたのか理解出来なかった。 少女が我に返ったのは、幾時ほど過ぎた頃だったろうか。 「お、お前！ いきなり何を言い出すんだ！」 素っ頓狂な声で言葉を放つ。顔には、驚愕の色が貼り付いていた。 「何って・・・聞いた通りなんだけど・・・」 はにかんだ笑顔で、少年が言う。 頬が紅色に染まっている。 「僕はね・・・ひと月前くらい前からずっと思ってた・・・このまま過ごすのもいいけど、もし君 と・・・一緒になれたらいいな、って・・・」 一語一語、噛み締めるように告げる。漸く、自分の中の想いが具体的に表現出来ているよう だ。 その言葉を耳にしても、未だにデスは驚きの表情を変えない。すぐに言い返す。 「お前！ 自分の言ってることが解ってるのか？ 仮にもあたしは死神だぞ！ 死神と夫婦に なるつもりか!?」 「うん。そのつもりだよ」 ハイエロファントも間髪を入れない。 ふう、と大きな溜め息をつき、少女が呆れたような顔になる。頭を掻き、何か言いた気に唇を 開けるが、すぐさまやめた。 少し声質を落とし、瞳を覗き込むような仕草で少年が問う。 「・・・どう、かな？」 「・・・どうかと言われてもな・・・」 これ以上ないくらい訝し気な表情を凝固させたまま、彼女は重々しく呟いた。それから腕組み をして彼を見詰める。 対して法王の少年も、更なる強度でデスに視線を送る。 暫く間を空けてから、ハイエロファントは語った。 「完全に僕の我儘だってことは承知してる。だからもちろん、強制したりするつもりもない。あく までこれは、僕個人のひとつの希望だってことだから・・・」 それを耳にして、やや少女が困惑した色を浮かべる。急激な勢いで、彼女の裡にいくつもの染 料が流れ出して複雑な混ざり方を始めた。 「あたしは・・・」 内面の混濁を隠すことなく、デスが言葉を形にしていく。 「正直言うが、お前とずっと一緒にいる、って段階で満足してる。それ以上の望みは今のとこ ろ、ない。それにな・・・結婚・・・となると、やはり考えちまうな・・・第一、死神が結婚して家庭を 持ってた前例は聞いたことがない。死神の家庭なんざ、寓話の一説にもならん笑い話だとは思 わんのか？」 自嘲気味な調子。 直後、ハイエロファントは思い出した。 かつて彼女が話してくれた自分の生い立ちを、である。 デスは産みの親を知らず、おのれを育ててくれた先代の死神と悲惨極まりない別れ方をした。 恐らくその日までの何年間は、彼女にとっての唯一の家族と呼べる存在が先代だったのだろ う。それが楽しかったかそうでなかったかは、少女の口から語られてはいない。しかし何にせ よ、その時期が今の彼女に根付いているのは想像に難くない。 その期間は、急転直下の展開で終わりを迎えた。それまでの先代との思い出をも破壊す る、余りに悲惨で無限の苦痛でしかない体験だ。 つまり、“親”を失った。 彼女が家庭や家族というものに対して、良い印象を持っているとは到底思えない。だから、い ざ自分が家庭を持つかも知れない立場になっても、躊躇したり悩んだりするのは否めない。 デスは、心的外傷を抱えている。 それを癒さなければ。 少年はゆっくりと首を振り、囁くように言った。 「笑い話になんかなる訳ないよ。それに、前例がなくても気にしなくていいと思う。でもホント に・・・君と家庭を持てれば、僕は凄く嬉しいな・・・」 少女が、口許に笑みを浮かべる。 「家庭か・・・あたしには全然縁のないものだと思ってた・・・」 思わず、ハイエロファントが反応した。屈み込んで彼女の右手を両掌で握り、真剣な目線を注 ぐ。 ハッ、とした少女が、目を丸く見開く。 「これから造ろうよ！ 僕と！ 君とふたりで家庭を持とう！ 家族になるんだよ！」 力強い、説得。 言葉の端から想いが満ち溢れている。 しかし、それに気圧されたかのようにデスは俯き、頬を赤くしたまま黙り込んでしまった。 少年が、言う。 「今すぐに答えてくれなくていいよ。君の結論が出た時でいいから・・・」 それから彼女の手を握ったまま、大きく頷いた。 少女は顔を伏せた状態で、籠った声で質す。 「・・・ひとつ、訊くが・・・」 「何？」 「もしあたしが断わったら・・・どうするつもりだ？」 ハイエロファントは、優しい微笑を湛える。 そして、はっきりと答えた。 「僕はどんな形にせよ、君と一緒にいたい。結婚はあくまで、君といるひとつの形だから。選択 肢のひとつを提案したんだと考えてほしい。もちろん、断わったことがどうこうなんて言わない。 そうであれば今まで通り、君と一緒にいさせてくれれば嬉しい・・・」 「なるほど・・・」 デスが、顔を上げる。すぐ目の前の少年の笑顔が鮮やかに映って、彼女の心を昂ぶらせた。 しかしその高揚を抑えるが如く、少女は告げる。 「一晩、考えさせてくれ・・・明日には答えを出す」 法王の少年は、コクリ、と頷く。 デスは、布団を被っても寝付けなかった。 ハイエロファントの求婚にどう応えるべきか、迷っているのだ。 既に丑三つ時を迎えている。満月は山の端に隠れようとしているところで、蒼白い光が鋭利な 角度でカーテンの隙間から音もなく忍び込んでいた。 結構早い時間に床に付いて、それからずっと考え込んでいるのだが、未だに答えに辿り着か ない。少年の言葉のひとつひとつが、呪文のように脳裏を巡っている。その度に彼女は、ベッド の上で顔を伏せたり頭を掻いたりしていた。 どうすれば良いか。 ただ確実なものは、ひとつ。 どういう答えになっても、彼は今まで通り自分の側にいたいと言った。その一言が、少女を楽 にしている。 家庭を持つ。家族になる―――死神として陽の当たらない裏道を歩んできたおのれにとって、 余りにも庶民的過ぎる、余りにもかけ離れた生き方。 想像すらつかない。不安も山ほどある。 だが。 他ならぬ人生を預けている男性の、提案。そして彼の希望。 自分が全幅の信頼を抱いたからこそ、彼に生き方を探してもらっているのだ。そんな少年か ら、進む道の選択肢がひとつ出された。 デスは思考する。 ハイエロファントとだったら。 彼とだったら、家族になるのも悪い生き方ではない。 いや、彼でなくては、家族という長い道程を歩むことなど考えない。 彼でなくてはならない。 そして彼女は、今までにないくらいの激しさで思った。 一緒にいたい。 ハイエロファントとずっと一緒にいたい。 そう想いを解放した瞬間、曇りが一挙に去っていった。 視界が開けた遠方に向かって、自分の歩く道が光に照らし出されている。彼方は未だ霞んで 見えない。しかし、少女は確固たる意思を得た。 この道で、間違いない。 途端、デスの気持ちは決まった。 ガバッ、と布団を跳ね除け、ベッドから飛び降りて裸足のまま走り出す。廊下に飛び出し、けた たましい音をたてて、少年の眠っている書斎の扉を思い切り開けた。 「起きろ！ ハイエロファント！」 長椅子に横になっている彼を、揺さ振る。 少年が、朦朧とした表情を向けて口籠りながら問う。 「・・・どうしたの・・・デス・・・」 深い眠りだった様子だ。 対して少女は、明瞭な声で話す。 「受けるぞ！ 昼間の話！」 僅かの、間。 その直後、瞬時に眠気が吹き飛び、彼の両眼が丸く見開かれて固定される。同時に、パアッ、 と少年の笑顔が輝いた。 「じゃあ！ いいの!?」 これ以上ないくらいの、弾んだ声。 ハイエロファントは歓喜に身体を震わす。 それを見た後に、デスが言い放った。 「ただし！ 絶対に後悔するんじゃないぞ！ あたしはいずれ、何らかの形で死神の役目に復 帰するつもりだ。死神の夫が世間でどう思われるか、解るんだろうな？」 「もちろんだよ。周りに何と言われようとも、僕は絶対に君を離さない」 真剣な表情で、ハイエロファントは語る。 少女の上半身に、一気に血が昇った。 かつて耳にしてきた彼の数多くの真摯な言葉の中でも、今の一言は特別に熱く、そして強い。 デスに向けられる少年の想いは、時間を経てじっくりと熟成されている。例えそれが三ヶ月弱と いう期間であっても、だ。彼の場合は時間の永さよりも、その期間の濃密な感情展開がそうさ せたのであろう。 デスは、少し視線を外した。それから、呆れ返ったように言葉を発する。 「まったく・・・よく恥かし気もなくそんな台詞が言えるな！」 「だって・・・本当のことだもの・・・」 彼女に諭されて流石に照れが出たのか、少年が呟く。 少女は、ふうう、と、肺の空気をすべて入れ替えるほどの大きな溜め息をついた。 つられたように、ハイエロファントも息を継ぐ。それから目線をしっかりと彼女に据え、穏やかな 表情で言う。 「でも・・・よかった・・・嬉しいよ、ありがとう・・・これからもよろしくね、デス・・・」 染み入るような声色だ。 彼はそう話してから、彼女の右手を、ギュッ、と握り、暖かい眼差しを向ける。 尚更、少女の上気が取れにくくなった。 「・・・あ・・・ああ・・・」 消え入りそうな、か細い返事。 赤い顔のまま、デスは俯いてしまう。 その直後、彼女は何かに気が付いた。急速にそれが自分の裡に広がり、やがて疑問となって 現れる。 思わず顔を上げ、ハイエロファントに質問した。 「それにしてもお前、何故それほどまで結婚や家族に拘るんだ？ 結婚してもしなくとも、どち らにせよあたしの側にいるんだろ？」 法王の少年の視線が、一瞬遠くなる。 ふっ、と目を閉じ、囁くように言葉を繋ぐ。 「・・・特に、話すつもりはなかったんだけど・・・」 そう言うと彼は、少女を瞳に映し、手を離してから長椅子の左側に寄る。 「座ってよ。これから話すから」 デスはそれに従い、少年に半身を向けるようにして右隣に腰を下ろした。好奇の眼差しを真っ 直ぐに注ぐ。 彼女の行動を確認した後、彼はゆっくりと息を吐き、地平の縁を見るが如き細く絞り込んだ視 線を前方に投げて語り始めた。 「・・・僕は、両親を早くに亡くしたんだ」 少女が、僅かに身体を動かす。 初めて耳にする、ハイエロファントの過去。 猛烈な興味が、彼女の中に湧き上がる。 「僕がまだ五歳の時、父親が病気で他界した。そして後を追うように、母親も半年後に亡くし た・・・」 声色が、段々と重くなっていく。 「父は、先代の法王。マジカルランドの法王は代々世襲制で、ひとり息子の僕が次期法王と決 まってたんだ。でも父が亡くなって、たった五歳の僕に法王の役目が回ってきた。余りにも早過 ぎる、って言ってくれた人もいたんだけど、結局は即位の儀が執り行われた。その日から、僕は この国の象徴たる位置にいることになったんだ。それから半年後、母も病で倒れ、逝った・・・立 て続けに両親を亡くしても、僕にはそれを噛み締める余裕もなかったよ。不思議と涙も出てこな かった・・・何故だろうね、両親が急にいなくなったのが理解出来なかったのかも知れないし、も うその時には死に対しての考えが出来てたのかも知れない・・・」 深く、透明な口調。 ハイエロファントは、尚も語る。 「それから僕は、マジカルランド大聖堂のシスターや司祭、司教の人たちに育てられた。みん な親切で優しかった。本当に僕は、恵まれた環境で生きてきたんだ」 突然、間が空く。少年の唇が停まった。 デスは、眉を寄せて彼を見詰める。 「でも・・・」 漸く、語りが再開された。 「いつしか僕の中に、我儘な感情が存在していた。大聖堂から住まいを移したい、っていう思 いが、日に日に募っていったんだ・・・」 「ちょっと待て。外に住むくらい我儘でも何でもないだろう？」 いきなり、デスが話を割る。 少年はゆっくりと首を振った。 「それは・・・今まで育ててくれたみんなを裏切ることになる、と思ったからだよ。それに、法王 は大聖堂に住んだ方が、本当はいいんだ」 「堅苦しいな。別に法王を辞める訳じゃなければ問題はないと思うが」 少女は、自分の考察を口にする。そして腕組みをして、僅かに口許を歪める。腑に落ちない、 といった表情だ。 ハイエロファントが、少しだけ微笑む。 「僕は、いろんなものを見たかったんだ。聖堂にいるだけでは解らない、外の世界を知りたか った・・・人から聞かされる以外の、自分の目で発見する出来事が僕には欲しかった。それだけ 興味があったんだよ、世の中に・・・」 しみじみと、言葉を続けていく。 「そして、とうとうそれをシスターや司祭たちに話した。答えは・・・意外とみんな、喜んでくれた んだ。逆に僕の方がびっくりしちゃってね・・・実は僕の父もそう言って、昔、街の郊外に住んで たんだって。血は争えない、って笑われたよ」 彼に、いつもの笑顔が戻る。 少女もつられて笑う。 「おまけに、父がかつて住んでた家を、みんながお金を出し合って改築してくれた・・・それが、 今僕たちがいるこの家なんだよ」 ハッ、として、デスは思わず周りを見渡す。 確か―――この家に初めて来た時、塗装の匂いや扉の木目が建物の新しさを告げていた筈 である。つまり、彼はここに越してきて未だ日が浅いのだ。 「本当に・・・大聖堂のみんなには感謝してる。僕の我儘を通してくれただけでなく、家まで新し くしてもらって・・・言葉にならないよ、ありがたくて」 「そうか・・・だが、それが家庭や家族を持ちたい理由なのか？ こうしてひとりで住む、という のが目的なら、それは矛盾してないか？」 少女の詮索は、確実に彼の言葉を捕まえている。 ハイエロファントの瞳が、彼女の目線をしっかりと受け止めた。そして実に明瞭な声で、答え る。 「ひとりで生きる為に、ここに住んだんじゃない」 「・・・どういうことだ？」 デスの声色が、疑念によって籠る。 少年は、引き続きはっきりと言葉を繋いだ。 「僕には、夢がある。それは父が抱いていたという夢と一緒なんだ。父の夢は・・・自分の子供 に法王の座を生きてるうちに譲り渡して、その即位の儀を自分の目で見ること、だったそうなん だよ。でもそれは・・・結局は叶わぬ夢になってしまった・・・」 やや、表情に翳りが走る。 しかしその直後、そんな陰影を振り払うが如く、ハイエロファントは力が漲る口調で少女に聞 かせた。 「僕は、父の夢を継ぎたい。父が成し得なかったその夢を、僕が実現したい。だから自分にと って最高と思える女性と結婚して家庭を築き、子供に次期法王の座を譲る・・・それが僕の夢な んだ。つまるところ、いずれはこの家で家族を持つ為に、ここに暮らし始めたんだ」 「子供・・・か・・・」 デスが、俯く。 その声の調子に、少年は身体の中を一瞬にして何かが引いていくのが判った。間髪を入れ ず、少女を穴の開くくらい見詰める。 窓と室内を隔てるカーテンの隙間から漏れる月光だけの、この薄暗い空間に於いても、彼女 が相当な懸念を抱いたのが表情から読み取れる。 「お前は・・・あたしに子供を産んでほしいのか？」 まるで怯えた猫のように、身体を縮み込ませて震え始める。 急な変化に、ハイエロファントは激しく動揺した。 先ほどから自分の希望ばかりを並べて、彼女の意思をまるで確認していない事実に気が付い たからだ。度胸を振り絞って求婚し、それが承諾されたことによって冷静な部分が完全に欠落し ていたとしか思えない。 しかし、彼がそれ以上気に病むことは、少女本人によって打ち消された。 「・・・あたしでいいんだな？」 先刻の声とは打って変わった、温かい口調。 彼女はもう、向けられる想いを逸らしたりしない。 道は、決まっている。 何を恐れることがあろうか。 「・・・お前だったら・・・いいぞ・・・」 ゆっくりと顔を戻して、落ち着いた笑みを全面に表した。デスは、おのれの根底から溢れようと している熱い感情を彼に対して放つ。 ハイエロファントが目を丸く見開いて、それを全身で受け止めた。それまでむしろ静かと言うべ きだった内面が一気に沸騰し、脳の芯が乱打される鐘のように鳴動し始める。 真っ白な意識に、ただデスの姿と言葉が舞い踊る。 「ただし・・・出来なくても後悔するなよ・・・今まで生命を奪うことしかやってこなかったんだ。命 を造るのは初めてだからな・・・」 「デス・・・」 そして法王の少年は両腕で、彼女の身体を優しく包み込む。実にゆっくりと、その腕に力を入 れていく。 少女は、ハイエロファントの温もりが伝わってくるのを感じていた。 穏やかで、安らかな波動。 「・・・嬉しいよ、ありがとう・・・」 少年が、耳元で囁く。 続いて彼が口にした、透明な言葉。 「・・・僕は・・・もう・・・ひとりじゃないんだね・・・」 その語りを聞いた直後、ドキン、とデスの胸が跳ね上がる。 魂の奥底に楔を打ち込む台詞が、今まで彼女が見てきた、耳にしてきた少年に関するありと あらゆる事象を間欠泉の如き勢いで噴出させることとなった。。 ハイエロファントは、両親に取り残された。止むを得ないとは言え、運命の残酷な決定は幼い 頃の彼にとって受け入れ難い現実だったのだろう。表面は落ち着きを装っていても、内実はと てつもなく混乱していたに違いない。 更に、多くの暖かい人たちに支えられたものの、親族のいない一抹の寂寞感が、恐らくずっと 存在したと考察される。集団の中にいたのにも係わらず心の片隅に根付いていたそれが、少年 の感情を構成するひとつだったのかも知れない。だから彼は悩みのある者、困っている者に対 して優しく出来るのではないか。憂いを知るからこそ、それが可能なのだ。 道こそ違えど、ハイエロファントも自分と同じ孤独を生き、運命に翻弄された。 しかしそれを、普段の彼は微塵も感じさせない。 人に向ける眩しい笑顔から、欠片も想像出来ないではないか。 何という、強い意志。 そう思ったデスは、今までにないくらい気持ちが惹かれていくのが判った。少年に対する想い が、遂に完成する瞬間がここに来たのだ。 少女は目を閉じて、顔を彼の肩に埋めた。 そして両腕に抱かれたまま、呟く。 「・・・ああ・・・ひとりじゃない・・・死ぬまでずっと一緒だ・・・」 その言葉は大地に染み込む水の如く、確実に少年の中に入っていった。やがて、それが心の 最も深い場所で、美しい光彩を放つ塊へと変化する。 突き上げる、歓喜。 痛いくらいに、ハイエロファントは彼女を抱き締めた。 「デス・・・」 そしてふたりの間が、ほんの僅か開く。 互いに何の合図も、掛け声もない。しかしその開いた距離が、次の行動の要因となった。 少年が、顔を寄せる。 少女は、目を閉じる。 ゆっくりと優しい動作で、ハイエロファントは自分の唇をデスのそれに重ね合わせた。 融けそうな、甘美な感触。 ふたりは、動かない。 実に永い時間、濃密な体験が続く。 どちらからともなく離れた唇が、それからかなりの時間、熱を持ったままであった。しかし、交わ される視線にはそれ以上の想いが込められている。 その後、書斎にはふたつの影が寄り添って、長椅子に座る光景が存在していた。 最高のまどろみに、ふたりは酔いしれる。 夜明けまで、ずっと。 |
