白い奇蹟：第五章

白い奇蹟
第五章

　祝日。
　おおよそ半時で、正午を迎える時間となった。
　マジカルランドの中心に位置するエンプレスの居城に程近い場所に、銀色の壁面が眩しい大聖堂が建っている。その建物の内部と周辺の広場、及び道路は見渡す限りの人でごった返している。
　その数、二千から二千五百。
　未だに膨張を続けるその数字は、ほぼ全部がハイエロファントとデスの挙式に参列する人数を表している。しかしそれらの人々のほとんどは、祝福の気持ちを抱いていない。感情の強弱はあれど、興味本位であるか怖いもの見たさか、あるいは意地かのどれかであった。
　単純に法王の結婚であれば、当然ながら大勢が祝福を唱えていることであろう。だが今回の場合は、その相手が死神である、という事実が人々に複雑な感情を覚えさせているのだ。
　デスはかつて、首刈りを行っていた。闘いを挑み、負けて覚悟した者の首を落として持ち去る行為を繰り返していたのである。それこそが即ち『死』―――人々は畏怖し、髑髏の面をした正体不明の人物と出逢うことに怯えていた。
　更に平行して、死神が『死』をもたらすのは当然である、という摂理もこの世界の人々に存在している。故にその行為が恐れられ忌まれても、異議を唱えられたことは稀であった。『死』を我々に与えるのは死神以外の何人でもない―――基本道理としてしっかりと根付いたそれが、至極当然の事実として君臨している。デスの首刈りに反論し、妨害に及んだのは、かつてのジャスティスとワールドのふたりだけなのだ。
　ところがここ数ヶ月、一般人で死神の姿を目撃した者はいない。暫くは、首刈りがあったという話題すらない。
　そこへ、降って湧いたような法王と死神の結婚である。ワールドからその話を聞いた人が心中抱く事柄は、次の通りだった。
　死神は、実は女性だったのか。
　一体、法王と死神の間に何があったのか。
　その件に興味を感じた者は、話の最後に付け加えられたワールドの一言で参列を決定したのだ。
　「安心して参列なさい。私が保障いたしますワ」
　『天空の女神』のお墨付きである。
　故に、祝福にまでは至らずとも深い興味を秘めて、多くの民が参列する結果となったのだ。
　そして、意地で首席する人のすべてが、ハイエロファントに思慕の念を寄せていた女性たちである。彼女らは情念の度合いは様々であれ、法王を慕っていたのには違いない。
　そこへ、突然の結婚話だ。感情を荒げる女性たちをワールドは巧みに落ち着かせ、それら全員を出席させるのことに成功した。しかし、その女性たちにも自尊心がある。ただ参列するだけではない。死神が法王の連れ合いとしてどれほどのものか、自身の目で見極めてやろう、との考えだった。
　多種多様の思いが、大聖堂に集結しつつある。
　人々の流れに混じって、ジャスティスが大聖堂前の広場を歩いていた。その後方から、小走りに近寄ってくる者の姿がある。
　真っ赤なマントを纏い、獅子頭を浮き彫りにした銀色の兜を被っている。上半身を同色の鎧で覆い、手には長槍を持つ。ハイエロファントと近い年齢の雰囲気の少年だ。
　「よお！　ジャスティス！」
　張りのある弾んだ声で、彼女の名を呼ぶ。
　振り向いた少女は、彼の顔を見た途端に柔らかい笑顔となり、挨拶を返した。
　「やあチャリオット！　キミも参列するんだ」
　「当ったり前だゼ！　オレが出席しなくて誰が出席するってんだよ！」
　チャリオットという名前の少年は、気迫の籠った声色で言葉を放つ。
　彼は、ジャスティスとは古くからの付き合いになる。熱血漢で、強い正義感の持ち主だ。彼女と日頃から手合わせを行う間柄であり、どちらがより強くなるかと切磋琢磨し合う良き競争相手として深い信頼関係を築き上げていた。
　チャリオットは、言う。
　「エロファントの結婚か・・・しかし驚いたゼ。相手はあのデスだろ？　オマエ、よく何も言わなかったな。オマエのことだから真っ先にスッ飛んでいくのかと思ってたゼ」
　彼はまだ、ジャスティスが死神と会って話をした事実を知らない。
　戦士の少女は、笑みを浮かべて返答する。
　「行ったよ、デスのとこ。いろいろと話してきた」
　「話？　闘ったんじゃねぇのか？」
　ジャスティスは右手の人差し指を立てて、笑顔を浮かべて片目をつむってみせる。彼女の癖で、気分の良い時か、あるいは何か含みのある発言をする際に出るようだ。
　「デスと闘うことは、もうなさそうだよ」
　真意が読めずに憮然としているチャリオットを促し、少女は大聖堂の中に足を踏み入れる。
　既に、式の会場となる礼拝堂は人々で埋め尽くされていた。おおよそ千五百人は座れる席は、隙間が見えないほどの混雑振りである。それどころか、多くの椅子を取り囲むように立ったまま開式を待つ人たちも多い。更に礼拝堂を一周している側廊、見下ろせる二階の回廊にも数多くの参列者が並んでいた。
　着席している者と、同じくらいの人数が立って待機している。出席者の総数は優に三千を超えるだろう。
　「うわぁ・・・こんなに集まるなんて・・・凄いや」
　ジャスティスが、感嘆の声を上げる。
　チャリオットは、口を大きく開けたまま言葉もない。
　その時、スッ、と誰かが近付く気配がした。
　「おふたりとも、ようこそ」
　振り返ると、ワールドが立っている。穏やかな微笑は相変わらずで、口調もまたいつも通り落ち着いていた。
　笑顔を返した少女は、彼女と正対する。そして周りをもう一度見渡し、息を継いでから話す。
　「凄い人だね。まさかこんなに集まるなんて夢にも思わなかったよ。ねねね、ワールド、どれくらいの人に声掛けたの？」
　「さあ・・・覚えてませんワ。とにかく目についた方には全部伝えたつもりですけど」
　女神は、両眼を細めながら答える。
　「あともう少しで、式が始まりますワ。どうも席はないようですが・・・立ち見も悪いものではありませんから」
　そう言うとワールドは、内緒話をするかの如く顔をジャスティスに近付けた。
　少女は何事かと、聴覚に全神経を傾ける。
　「あまり大きな声では言えませんが・・・おふたりとも、この近くでご覧になった方がよろしくてよ」
　極限まで押し殺した調子の声色が、彼女の耳に滑り込む。
　「え？　何で？」
　「・・・ふたりはこの扉から入場してくるんですのよ」
　その言葉に、ジャスティスは一瞬考えるような表情をした。そしてすぐに、ハッ、と何かを発見した様子で顔を上げ、女神に向けて満面の笑みを放つ。
　「ありがとね、ワールド。そうさせてもらうよ」
　礼を受けた彼女も大きな動作で頷き、軽く会釈をしてからふたりの前を立ち去った。
　目の前で内密な会話をされたチャリオットは、これ以上ないほどの不機嫌な顔で戦士の少女の背後から言葉を放り投げる。
　「何だよオマエら、こそこそして。オレには聞かせらんねぇ話かよ」
　「違うよ、チャリオット。耳貸して」
　本人が承諾をするより早く、彼女は相当に密着した距離まで接近し、少年の耳元まで自分の口を思い切り寄せる。驚いて凝り固まった彼の兜越しに、先ほどのワールドの話と提案、そこから導き出されたおのれの判断を告げた。
　暫くの間、思考を回していたチャリオットが、突然大声を上げる。
　「そうか！　ここだとあいつらがよく見え・・・」
　「わーッ！　ちょっと！」
　大慌てで彼の口を左掌で塞いだ少女は、その直後に辺りをきょろきょろと見回し、周囲の人々が何の反応も示さないのを確認して、はあ、と大きく溜め息を漏らした。途端、全身を冷や汗が急速に流れ落ちる。
　再度、抑揚を絞った声でジャスティスが少年に話す。
　「そんな大声出さないでよ！　みんながここに集まり過ぎちゃって式が出来なくなったらどうするんだよ！　ワールドはボクたちだけに教えてくれたんだよ。折角だからその厚意に甘えさせてもらおうよ、ね」
　未だに唇を固められたままの彼は、三度、首を上下に短く振る。チャリオットがその束縛から解放されたのは、もう一度少女に念を押されて、大声を張り上げないと約束してからであった。
　ふたりは入口の扉の近く、側廊の柱に寄り添うようにして陣取る。ここからだと、入場してくる新郎新婦の姿を間近に観ることが出来るのだ。
　扉の外側は広い玄関ホールで、礼拝堂に入ろうとする人々が溢れている。そこから二階の回廊に昇る階段が左右に分かれ、ホールに面していくつかの小さな部屋の扉が見えていた。それらの部屋は、この大聖堂での行事関係者の控室となっている。恐らく何処かの室内で、デスとハイエロファントが今や遅しと待ち兼ねていることであろう。
　参列者は、ほぼ礼拝堂に集まり終えていた。
　座席は当然満杯だ。回廊、側廊、及び祭壇に近い場所までが参列者で溢れ返っていた。幾重にもなった人の波が、何とか自分の視界を確保しようと上下左右に揺れ動き続けている。
　参列者総数―――およそ五千。
　この空間によくぞ詰め込んだり、といった数字だ。
　玄関ホールでは司祭や司教、シスターたちが出席する人々の誘導に忙しい。そしてそれらがすべて完了したのは、式の開催時刻である正午を五分ほど回った頃であった。
　ざわめきは、治まることがない。
　ジャスティスも辺りを見回し、落ち着く気配が感じられなかった。
　「なあ、他に誰か見かけたか？」
　チャリオットが、問う。
　少女は彼に目線を向けて、明瞭な声で即答する。
　「来る時、スターとムーンを見かけたよ。プリエステスは最初からここの手伝いで来てる筈だし、あ、テンペランスもいたっけ。ボクよりも先に来てると思うから、多分ずっと前の方に座ってんじゃないかなぁ。あ、昨日フールくんと逢ったけど、またお兄ちゃんが旅に出てるんでひとりと一匹で来るらしいよ」
　彼女は、知り合いの名前を次々と挙げた。
　鎧の少年は、それに何度も頷いてから言葉を繋ぐ。
　「オレはストレングス親子に逢ったゼ。マジシャンとデビルも見かけた。そう言や師匠も来てる筈だゼ。一昨日は今日の二次会で呑む酒の話までしてたからな。気が早ぇよな」
　「そっか、みんな来てるんだ」
　安心した笑顔を浮かべて、ジャスティスは平常心に近い感覚を取り戻していた。
　ふたりがそうしている内に、礼拝堂の奥の方向から徐々に静けさが広がってくる。巨大な祭壇の前に、二名の枢機卿を従えたエンプレスが白地に水色と黄金色をあしらった法衣で現れたからだ。
　女帝は、今日は『柔の面』である。
　枢機卿を祭壇の両端に立たせ、自分は真正面に位置して多くの参列者を一通り見回す。そして満足気に微笑み、完全に静寂に支配された礼拝堂に清んだ声を響かせた。
　「只今より、ハイエロファントとデス、両名の婚姻の儀を執り行います」
　列席者の意識が、一挙に祭壇の方向に向く。
　「始めに、この婚姻が祝福の許に結ばれることをここに宣言し、祈りをもって父なる神への言葉に代えさせて頂きます」
　そう言うとエンプレスは両掌を胸の前で組み、目を閉じる。
　両側の枢機卿もまったく同じ動作を行い、そのまま数秒間身動ぎしなかった。
　女帝の瞳がゆっくりと開く。そして、おのれの正面に一直線に延びる真っ赤な長い絨毯の突き当たりにある大きな扉―――玄関ホールとを繋ぐそれを見詰め、張りのある、尚且つ清涼な声色で言葉を放った。
　「ではまず、新郎、ハイエロファントよ。祭壇まで進み出なさい」
　入口の両脇に控えていた二名の司祭が、扉に歩み寄ってから同じような動作で、ゆっくりと手前に引く。
　流れ込む太陽の光の中に、法衣姿のハイエロファントの影が浮かび上がる。手にはいつもの黄金色の短い杖を持ち、普段着ている法衣の、黄緑色の部分が金色に変わっている祭礼用の物を身に纏っていた。
　それを目にした招待客の間から、オオッ、というどよめきの声が湧き起こる。マジカルランドの若き法王―――その晴れ姿に、ただひたすら人々は感慨を覚えていた。
　「何と素晴らしい」
　「これぞまさに、法王のあるべき御姿だ」
　列席者は、口々に賛美の言葉を唱える。
　祭壇に向かって背筋を伸ばし、毅然とした足取りで進む法王を大勢の視線が追う。まさしく、式典に相応しい雰囲気がその場に築かれていた。
　やがて祭壇にまで辿り着いた彼は、踵を返して参列者を一通り見渡す。そして目を細め、自分が今さっき入ってきたばかりの扉を見詰める。次に迎え入れる新婦の為に一旦閉じられたそこに、法王のみでなく、会場のすべての視線が再度集まりつつあった。
　遂に、デスの入場だ。
　ハイエロファントは人々の喧噪を耳にしながら、おのれの裡から突き上げる感動を噛み締めていた。初めて彼女と出逢ってから、三ヶ月と少ししか経っていない。これを聞いた人は、その期間の短さに驚く。しかし実際にその間に起こった出来事とは、まるで何年もの動きを凝縮したような観念すら覚えるのだ。
　故に法王は、決して早急な結婚だとは考えていない。
　むしろ、もっと早くデスに出逢っていたのならば、彼女の抱えていた悲しみや背負っていた荷物を、こちらが持って負担を軽くすることも出来たのではないか。そう思えてならないのだ。
　何にせよ、ここまで辿り着いた。
　ふたりの正式な結合が、漸く成される。
　そして、祭壇の真正面に立つエンプレスが、より一層張りのある声で言葉を繋ぐ。
　「続いて、新婦、デスよ。祭壇まで進み出なさい」
　ざわめきが、より高まる。
　とうとうこの瞬間が、来た。
　人々の様々な思いが、改めて渦を巻き始める。それは騒々しさと相まって、異様なまでの高揚と緊張を曝け出していた。
　怒涛のように、目線が入口へと集中する。
　二名の司祭が扉の取っ手を掴む。そして、先ほどの法王の入場時と同様にゆっくりと手前に引いて行く。
　太陽の光が、奔流となる。その薄い天幕に覆われたような、ハイエロファントが最初に直立したのと違わぬ場所に、彼女は―――立っていた。
　何と。
　白。
　姿を目にした人は、絶句する。
　そこにいたデスの衣裳は、白い法衣。
　祭壇の女帝が着ている物と、形体が極めて近い。法王より小さめの同じ模様を施した帽子を被り、マントが首許から大きく翻る。手には、ハイエロファントと揃いの杖を持っていた。
　そして何より法衣は、縫い込まれている刺繍さえも含めて、一点の曇りもない白。
　まさに、完璧なる純白。
　更に、それにデスの紫の髪が映える。
　至上の美、と言っても過言ではあるまい。
　口を開けたまま、茫然と見詰める参列者。
　その時まで彼ら、彼女らの裡にあった様々な感情が、その刹那に吹き飛ばされた。そして、空白となる。先ほどまで巨大なうねりを維持していた多くの目線が、彼女の姿で固定されてしまう。
　それほどまでに、驚異の影響力があった。
　その中を、デスは実にゆったりとした動作で、真紅の絨毯を歩き始める。新郎と同じように、背筋を、ピン、と伸ばして、視線は真っ直ぐに祭壇を見たままで。
　扉の近くにいたジャスティスとチャリオットにも、彼女は気が付かない。死神の瞳には、多くの列席者も集中する目線の渦さえも映ってはいないのだ。
　ただ、ハイエロファントだけがいる。
　式に入る前、彼はデスにひとつの提案を出していた。
　参列者の人数を聞いた時、その余りの多さに彼女は萎縮の感情を覚えてしまった。表面上は取り繕っても、やはり強度の緊張は否めない。
　ハイエロファントは、法王として数多くの人々の前で幾つもの祭礼や式典を経験してきた。故に慣れている。逆にデスは、今まで十人以上の集団の前に出たことがない。
　入場の時に、果たして足が進められるかどうか。
　開式前から全身の強張りを体感してる彼女に、その緊張を解きほぐそうと法王は言った。
　僕だけを見て、僕のところに歩いてきてほしい、と。
　今、デスは忠実にそれを実行しているのだ。
　マジカルランドの結婚式は、新郎と新婦が別々に入場する。それは、まず新郎が先立って祭壇まで進み、後から来る新婦の為に道を拓く、という意味合いがある。
　この慣例は、ふたりにとって幸いであった。
　デスの両目には、ハイエロファントのみが映っている。穏やかな笑みを湛え、一歩一歩、噛み締めるように歩を進めていく。
　その歩みに随って、参列者の目線も動いていった。最早誰もが、目を逸らすことが出来ない。かつて彼女を見た者、または髑髏の仮面に隠された顔を知らない者もすべてひっくるめて、ひとつの感情に支配されている。
　（本当に・・・死神なのか？）
　輝きを放つ美しさと、柔らかい微笑み。
　その姿、女神そのものではないか。
　この時、デスの内面に秘められたハイエロファントへの限りない想いが、恒星の如き眩しさで礼拝堂の空間すべてを照らしていたのだ。
　誰ひとり、声を発する者はいない。
　祭壇に着いた彼女を、法王は最高の笑みで迎える。
　対して死神も、はち切れんばかりの笑顔になる。
　そして、右側にハイエロファント、左側にデスが立ち、ふたりは並んで祭壇に身体を向けた。
　エンプレスはそれを確認すると、大きく頷いてから両掌を上にして口を開く。
　「ではハイエロファント、デス、杖をこちらに」
　言われた通り、ふたりは女帝に渡す。
　黄金色の杖が二本、祭壇に捧げられる。それからエンプレスは両手を合わせて胸元で組み、目を閉じた。
　少しの後、杖が両者の手に戻される。
　「杖交換の儀を行います。両人、互いに杖を渡しなさい」
　女帝の言葉に続いて、ふたりが正対した。
　目線が絡み、杖を持つ手が挙がる。
　互いの右手に握られたそれが、相手の左手へと渡る。そして両手でしっかりと持ち直し、もう一度祭壇に身体を向けた。
　この儀は、双方の意志を交わす、という象徴である。
　エンプレスは再度頷く。それからふたりを交互に見詰め、掌を掲げて言う。
　「では、父なる神の御前で、この婚礼に偽りなきことを問います。新郎、ハイエロファントよ、おのれの妻となりし者の名を答えよ」
　法王は背筋を伸ばし、胸を張る。直後、礼拝堂に響き渡る声で口を開いた。
　「デス」
　女帝が、笑みを浮べる。
　「続いて、新婦、デスよ、おのれの夫となりし者の名を答えよ」
　死神が、ゴクリ、と唾を飲む。彼の視線が自分に向けられるのを感じていたのだ。
　こういった儀式で改めて名前を呼ぶことの、何と気恥ずかしいことか。普段通りに声を発することなど、彼女にとっては難儀極まりない。
　右側の法王と、目線を合わせる。彼の暖かな微笑みを目の当たりにして、少し、硬直が解かれる感じを覚えた。そして正面を向き、思い切り弾みをつけてその名を呼ぶ。
　「ハイエロファント！」
　場内に、余韻を持って染み渡った。
　エンプレスと法王が、同時に頷く。
　「よろしい。互いに口にせし名の者を、これからの人生に於ける良き連れ合いとし、永き道程を励まし合い、慈しみ、共に歩んで行くのです」
　穏やかに、且つ優しく女帝が告げる。
　「では、誓いの儀を」
　ふたりが、ハッ、として顔を上げた。
　遂に、この瞬間が来てしまった。
　途端に、この礼拝堂に集まった列席者の人数が、改めて彼らの裡に浮かび上がる。それまでは敢えて自覚するのを避けていた事実が、瞬時に刻み込まれた。
　『誓いの儀』とは、結婚式に於いての接吻をいう。これによって最終的に婚姻が成立するのだ。この世界での慣例ではあるが、ふたりには、特にデスにとっては至極恥かしい行事でしかない。
　五千を超える群集の前で口づけを交わす―――例え誰であろうと気後れするこれを、今からふたりは実行しなければならないのだ。
　前日、今回の式次第を聞かされたデスは、この儀式だけはやめられないか、と女帝に訊いた。しかしそれは拒否される。
　ハイエロファントは内容を知っていたが、なまじ重要な儀式である為に端折るつもりはなかった。そして彼女の気を和らげようと、いろいろと説得を試みたのだ。デスは、ハイエロファントが言うなら、と納得した。
　だがその時は、ふたりともこれだけの大人数が集まるとは夢にも思っていない。
　緊張は、頂点を迎えていた。
　法王が向きを変える。自分の裡を、血液が上昇してくるのが理解出来た。それでも彼は、真摯な眼差しをデスに注ぐ。表情も真剣そのものだ。
　それを視界に映して、やっと死神も身体を返す。
　彼女は、ハイエロファントの視線を真っ向から受け、一挙に上気する感覚を味わう。
　結婚を承諾した夜に初めて交わして以来、幾度か唇を重ねてはきた。だが、今はふたりきりではない。そう易々と実行に移せる状態に置かれていないのだ。
　しかしデスは直後に、入場した時の場面を思い出していた。ハイエロファントに言われたことを守って、彼だけを見詰めて祭壇まで歩いてきたおのれを、である。
　そして、自身に言い聞かせる。
　彼だけを、見よう。
　デスは顔を上げ、そのまま身動ぎしない。彼のみを、瞳いっぱいに捉える。
　暫くの間、ふたりは見詰め合う。
　じれったい空気が、礼拝堂を覆い始めた刹那。
　ハイエロファントの右手が、彼女の頬に触れる。
　デスは、目を閉じる。
　流れるような動作で法王の身体が近付き、固唾を飲む五千に及ぶ目線の渦の中、遂に、ふたりの唇が合わせられた。
　再び、動かない。
　大聖堂すべてが、時間を停める。
　斬新な感動すら呼び起こす、目映い光景。
　見る者は、それまで自分の中に存在した様々な感情が、一気に浄化されていくのを自覚していた。そしてそれは、美しきデスとハイエロファントの晴れ姿を目にした効果も相まって、怒涛の如く新たなる思いを湧き上がらせる結果となったのだ。
　永い、永い時間の口づけは、静かに完結する。
　ゆっくりと唇が離れ、再び見詰め合うふたり。
　照れくさそうな笑みを交わす。
　場内のあちらこちらから、感嘆の溜め息が漏れる。
　そして―――エンプレスの声が、今までにない透明な響きを持って轟く。
　「誓いは成された！」
　途端。
　一斉に拍手が起こる。
　五千の人々の両掌が、大波のような旋律を奏でた。
　デスもハイエロファントも、驚いて目を丸くする。
　ふたりは、よもやこれほどまでに大勢の参列者が来場するとは考えてもいなかたったし、尚且つ満場の拍手を貰えるとは露ほどにも思っていなかった。
　しかし今、祝福の空気が満ち溢れている。
　それは、ふたりの奥深くまで染み込んでいく。
　そして。
　法王が満面の笑みとなり、列席者に正対して言葉を放つ。
　「皆さん！　ありがとうございます！」
　その声に、場内に再び静寂が戻っていった。法王の話を聞こうと、参列しているおのおのが全身を耳とする。
　一通り沈黙が訪れてから、ハイエロファントは語る。
　「今日、僕はここに、デスと婚姻を成しました。これからの長い道を、彼女とふたり、手を取り合いながら歩いて行きます。その旅立ちの日にこれだけ大勢の方々に見送りを頂き、幸福と感謝の念に絶えません」
　穏やかな口調と、笑顔だ。
　「皆さんご存知の通り、彼女は死神です」
　表情を保ちながら、彼は声色に厳格な調子を含ませる。
　「死神とは、生命環の一端を担う重要な役目です。すべての生命は誕生してから、成長し、生き、そして終焉を迎えます。現世での終わりを迎えた魂は、次なる世代への転生を待つことになりますが、その橋渡しをするのが死神なのです。それだけ重く大変な役目を背負い、また誰にも負担を押し付けることなく続けるいうことは並大抵のことでは不可能です。苦痛を感じることもあったでしょうし、あるいは誰かに代わってほしい日があったかも知れません。しかしデスはそのようなことは一切せず、簡単には出来ない、しかしなくてはならない役目を担ってきたのです。それがどれほどの決意と意志であったか、皆さん想像してみて下さい・・・」
　暫くの、間。
　聴衆は自分の裡に描き出された事象を、震えながら感じている。
　法王の言葉が、乾いた大地に降り注ぐ雨のように、心の奥深く染み込んでいった。
　そしてハイエロファントは、きっぱりと断言する。
　「このマジカルランドに於いて、幼少からそんな役目を続けてきた彼女は、僕が尊敬する素晴らしい女性です」
　そう言って法王は、傍らのデスに熱い眼差しを注ぐ。
　見詰め返した彼女の頬が赤く染まる。これほどの人数の前で、内なる想いをはっきりと明言出来る彼に、死神は驚きと感嘆を隠せない。
　「僕は彼女を最高の女性と感じ、妻になってほしいとお願いしました。そして彼女は、僕を人生の連れ合いとして選んでくれました。今日、この日を迎えることが出来て心の底から嬉しく想っています」
　再び正面を向いて語り掛ける声が、綺麗な響きを含む。
　「多くの方々が集まって下さったこの場で、最良の挙式を行えたことに感謝し、最後に僕の、デスへの想いをここに表して挨拶とさせて頂きます」
　そして一呼吸置いて、自分の妻に視線を固定して言い放つ。
　「彼女は、僕の命です」
　一瞬の、後。
　割れんばかりの拍手が、再度吹き上がった。
　潮の如く、うねりを起こす。
　その中で、ハイエロファントはデスを見詰め続ける。
　拍手の洗礼を全身に浴びながら、彼女はおのれの裡に言葉の渦が巻かれるのを察知していた。夫と同じように、この参列者に向けて何かを話したくなったのだ。
　それは今までにない感情である。普段は口数が少なく、ハイエロファントの前でも極端に饒舌になることはない。しかし今は、五千にも及ぶ目線が集中する状況が、恐らくは感情を主張したいという意欲に火を点けたのではないだろうか。
　彼は、はっきりと気持ちを明示した。
　自分も、はっきりと言っておきたい。
　デスは列席者に身体を正対させ、声を張り上げる。
　「聞いてくれ！」
　何度目かの静寂が、礼拝堂を覆っていく。
　完全にそれが降りるか降りないかのうちに、彼女が話を始めた。
　「・・・あ、あたし・・・正直言って、こんなに大勢が集まるなんて思ってなかった」
　その場にいる人のほとんどが、死神の声を耳にするのは初めてであった。幼さが未だに残る声質に、参列者たちはほのかな暖かさを感じる。
　「あたしは死神だし、ずっとそんな生き方をしてきたから・・・式は、あたしとハイエロファントだけでやるつもりだった。でも実際にこういった式をやってみて・・・その、何だ・・・あたしはこういう場を知らないし・・・何から何まで全部、ハイエロファントに任せた。そんな訳で、まあ何とかこなせたとは思うが・・・」
　照れくさそうに、少し目線を落とす。
　しかしすぐに顔を上げ、明確な口調で語った。
　「実は今、死神を休んでいる」
　ハッ、と目を丸くして法王が妻を見る。
　デスは一瞬だけそれに瞳を合わせ、何かを言おうとした彼を視線で制した。すぐに五千の驚いた表情に対して言葉を繋げる。
　「あたしは今まで死神として生き、自分では全力疾走してきたつもりだ。だから今は、少し息抜きをしている。勝手とは解ってるが、もう暫く休むつもりだ」
　短く呼吸をして、彼女は続けた。
　「こうしてハイエロファントと結婚する為に休暇を取ってる、と解釈してくれて構わない。何にせよ、休みで最大の行事が無事終えたことはありがたいと言っていいだろう」
　自然な柔らかい微笑みで、デスは彼方を眺めるような視線を投げていた。
　それに随って、列席者のそれぞれの顔が弛んでいくのが祭壇からも見て取れる。
　「ここでお前たちに、これからのことを話しておきたい」
　ピン、と一本の芯が固まった声色が、礼拝堂を走り抜けた。
　僅かの間に、すべての参列者が姿勢を正す。かなり重要な言葉が来るであろうことは、老若男女問わず誰もが感じていたからだ。
　「あたしは、ハイエロファントに人生を・・・あたし自身のすべてを預けている。生きていく上で、こいつとなら上手くやっていけそうな気がする。いや、あたしはハイエロファントと一緒でなければ永らえるつもりはない。他の何人でもない。ハイエロファントでなければならない・・・だからこれから先は、ハイエロファントと一緒に運命を拓いていこうとおもう。正直、今は未来のことは解らんが・・・確実なことはひとつ、あたしは近い将来、再び死神の役目に戻るつもりだ」
　場内のあちこちで、ゴクリ、と唾を飲む音が聞こえる。
　歴史が動くその一瞬に、立ち会っている―――そんな緊張感が張り詰めていた。
　デスは、絶妙な間を置きつつ話を紡いでいく。
　「それがいつになるかは解らない。明日かも知れんし、何十年も先かも知れない。それでもはっきり言えるのは、あたしは必ず死神に復帰する、ということだ。それがお前たちに歓迎されるかどうかは判らん。不快に思ったりする奴もいるだろう。それでも・・・あたしは死神に戻る。それが、あたしがこの世界に生を受けた理由・・・あたしの存在する意義なのだから」
　その途端、彼女の堅固たる感情と同調して、声と瞳に凛とした彩りが煌く。
　人々は、感じていた。
　デスの意志。
　今まで極めて重い役目を背負い続けてきた女性の、揺るぎない根源。
　幾許かもそれを知り得た者は、喉の奥から突き上げる感覚に脳髄を撃たれる。
　何という、凄まじい運命か。
　何という、決意か。
　最早この大聖堂内では、雑音を発する気配すら感じられない。
　ありとあらゆる意識が、デスに集中していたのだ。
　「死神に復帰した後、あたしはお前たちの命に終わりを告げに行くこともある筈だ。それが死神だからな・・・あたしはお前たちに『死』を与えねばならん瞬間が必ず来る・・・それを無理に受け入れろとは言わない。あたしを拒絶しても構わない。だがもし、現世での終わりをあたしに委ねてもいいのなら・・・その時は・・・」
　刹那の後、言葉を放つ。
　「お前たちの来世への旅立ちは、あたしが責任を持って保障する！」
　一瞬にして、その声が場内を駆け巡る。
　人々にそれが染み渡るまで、さほどの時間も必要としなかったのだ。
　列席者は、解った。
　最早『死』を畏怖することなどない。
　『死』を迎えるのは避けられるものではないが、不安に思う必要などない。
　我々は、あの紫の髪をした死神によって、来るべき転生を約束されたのだ。
　デスの明言は、安堵という刻印となる。
　直後。
　噴火のような、歓声。
　席に座していた人も立ち上がり、両掌が裂けんばかりに拍手を始める。
　感極まって涙する老人の姿もあった。
　幼い子供までが、言い知れぬ感嘆を胸深くに刻み込んでいく。
　この大聖堂全体が、巨大な音響装置と化していた。拳を突き上げ、手を高々と挙げ、すべての参列した者が賛美と歓喜を口々にする。
　ハイエロファントは、これ以上ないほどの驚いた表情を妻に向けた。多くの列席者よりも遥かに強い感動を、彼は覚えている。彼女が胸の裡で温めていたであろう決意を敢えて大勢の眼前で言い放った事実は、今までは想像し得なかった。
　デスは今まさに、マジカルランドすべての民の命を改めて背負うことを告げたのである。
　それは、法王の抱く感情をかつてない水準にまで押し上げる結果を生み出したのだ。
　真っ直ぐな眼差しが、死神に注がれる。
　それに呼応して、彼女の紅色の輝く瞳が彼を捉えた。
　「そういう訳だ・・・よろしくな、ハイエロファント」
　拍手と歓声の波の中、夫の耳元に顔を寄せて、デスは囁く。そして、満面の笑みを表す。
　ハイエロファントが、満面の笑顔を返す。
　心底から溢れ出る、喜び。
　彼は、ギュッ、と妻の手を握る。
　「こちらこそ、よろしくね・・・デス」
　視線を絡ませるふたりは、掌の温もりを互いに噛み締めていた。
　いつまでも、賛美と称揚の声は止まない。
　大聖堂はデスとハイエロファントを中心として、それから実に永い時間、祝福に包まれていたのであった。

　高らかに乾杯の声が響き、グラスが音を立てる。
　銘々の盃が一気に干され、拍手と歓声が上がった。
　極親しい者だけを集めて、挙式の後にパーティーが開かれた。主催はエンプレスで、幹事はワールドとジャスティスが担当して女帝の城の中庭で行われている。
　デスとハイエロファントは寄り添って一箇所に座り、様々な料理が山盛りに並べられた大きな卓に向く。既にふたりとも、普段の服装に着替えていた。
　その周りには、彼らの近しい知り合い、友人が集まって口々に祝福の言葉を唱えている。
　デスの傍らには、女性たちが固まっていた。どうやら彼女らは、新婦の衣裳とその晴れ姿に魅入られたらしい。それぞれが笑みを満々と湛え、死神を見詰めているのだ。
　そんな中で、デスは薄紅色に顔を染めて口籠りながら、次々に浴びせられる感想や質問の類に戸惑っていた。こういう形で注目を集めるのはもちろん初めてのことだ。何て答えていいやら解らない。時折、彼女は側にいる夫に視線を投げて救いを求める。
　しかし一方、ハイエロファントは男性連中に囲まれて、手荒い祝辞を受けている真っ最中だ。
　「やったな！　エロファント！」
　「先を越されてしまったであーる！」
　チャリオットとマジシャンがそう言いつつ、拳をグリグリと押し付けたり、肘で小突いたりしている。まるで我がことのように喜んでいるのが判る、はち切れんばかりの笑顔だ。
　「痛たたた・・・もう、やめてったら」
　だが法王の顔には満面の笑みが浮かんでいる。晴れの祝典を無事に終え、デスと夫婦になることが出来て嬉しくて仕様がないのが彼の本心であるからだ。
　その光景を少し離れたところから見ている、今は『剛の面』になっているエンプレスが、二杯目の酒を流し込み、ふう、と息をついて話し出す。
　「アタシもそろそろ、結婚を考えなきゃならないかねぇ。アタシだけを見てくれるイイ男でも身近にいれば、前向きに考えてやっても構わないんだが・・・」
　「あら？　気付いてないのですか？　いつもあなたのことを見てる殿方がいらっしゃるというのに・・・」
　傍らで盃を手にしたワールドが、男性たちの輪に目線を投げながら口を開く。
　訝し気に、女帝は彼女を見る。
　「誰のことだい？　そいつはアタシの知ってる奴か？」
　「ええ、大変に良くご存知の筈ですワ」
　「誰だ一体・・・チャリオットやデビルは子供だし、マジシャンは誰にでも声掛けてるからな。まさかストレングスじゃないだろうね？　あいつは下僕だから、そんな目でアタシを見てるとは思えないし・・・」
　途端に、女神が吹き出す。含んだ笑い声を口の中に押し込めて、さも可笑しそうに身体を少し屈める。
　エンプレスは、即座に反応を見せた。
　「何笑ってんだい、ワールド」
　尚も愉快さを押し殺す彼女に、疑念の眼差しを送る。
　漸くワールドが、言葉を発した。
　「ご自分でお捜しなさい。そのうちに判りますワ」
　妙な雰囲気の彼女たちを他所に、死神の周りを囲む女性たちとは身体ひとつ分ほど距離を置いたジャスティスが新郎に話し掛ける。
　「ねねね、あの衣裳ってどうやって決めたの？」
　法王は、少女に両眼を向けて答えた。
　「僕は自分で持ってる祭礼用の法衣だけど、デスの衣裳はエンプレス様とプリエステスに手伝ってもらって決めたんだよ」
　「ふーん・・・あ、いや、別にデスの衣裳はいいんだけどね・・・」
　急に、彼女は我に返ったかの如き表情で、呟く。
　視線が泳ぎ、定まらない瞳へと転化する。
　どうしたのか、と問いた気な顔になったハイエロファントより素早く、チャリオットはさも当たり前のことを話すかのように口を開いた。
　「ジャスティス、お前さっきデスの服のこと聞きたがってなかったか？　式の最中だってやたらと『綺麗だ』『綺麗だ』って連発・・・」
　「うわぁ！　何言ってんだよチャリオット！」
　瞬時に、大声を張り上げた少女は大慌てで彼の唇を右掌で押え付ける。
　この日二度目の拘束を食らってもがく少年を傍に、ジャスティスは今までにないと思われるほど顔を真っ赤に染め上げていった。周囲の好奇の目線が自分に注がれる中、上気した身体を早く治めたいと必死の様子だ。
　彼女はその多くの眼差しからデスのそれを発見し、今度は視界を凝固させる。
　対して、死神は少女から視線を逸らさずに、少し微笑む。
　ドキッ、として息を吸い込んだまま、ジャスティスは動きを凍てつかせてしまった。
　暫しの沈黙が会場を覆った、後。
　ふと、ハイエロファントが何かに気付き、周りを見渡してからエンプレスとワールドに訊く。
　「ところで、ストレングスちゃんやフールくんたちの姿が見えないんですが・・・」
　その問いは、ジャスティスの赤面を終息に向かわせ、チャリオットを束縛から解く効果をもたらした。場の雰囲気が、明らかに新しい流れに乗る。
　法王の知り合いには、年齢の幼い者も何人かいる。このパーティーの席に呼ばれている筈であった。しかし、宴が始まってかなりの時間が経過したが、一向に登場する気配がない。
　ハイエロファントの正面で肉の塊に齧り付いていた、色黒の大男が口を挟む。
　「ムスメは、何か持ってくる、って言ってたズォ」
　筋骨隆々とした巨躯の持ち主―――名前は、ストレングス。そして“ムスメ”と呼ばれた方も、父親とまったく同じ名前、ストレングス。
　実は、この親子には血の繋がりがない。捨て子であった赤子の娘を、今まで逞しく育ててきたのはこの巨漢の男であった。既に娘は、自分が捨て子であった事実を知っている。それ故に、この親子は血縁以上の愛情で結ばれているのだ。
　法王は彼を見上げ、再度質問する。
　「何処まで行ったか判りますか？」
　「いや、そこまでは知らないズォ」
　父親が言い放った、途端。
　中庭の入口方面から、複数の声が聞こえてきた。
　「あれれ、もう始まってるモン」
　「アンタがぐずぐずしてっからだよ！」
　幼い男児の声に続いて、張りのある声質で少女の台詞が響く。程なく、宴の席の目線がすべて集まる中、列を成して子供たちが姿を現した。
　「ごめん父ちゃん！　遅くなっちゃった！」
　先頭を切って入ってきたのが、娘の方のストレングスであった。
　陽に焼けた肌が、白い半袖の上着に映えている。曇りのない緑色の瞳は真っ直ぐに前を向き、それが芯の強さを物語っていた。いかにも快活そうな感じで、よく男の子と間違われるそうだ。声にも元気が漲っている。
　続いて、何人かの子供が纏まって入場してくる。どうやら何かを持参してきた様子で、それぞれが後ろ手のままで隠していた。
　彼らは、一直線にデスとハイエロファントのところまで歩いてきた。そして、ズラリ、と横一列に並んで立つ。
　何事かと、ふたりは子供たちの顔を見詰める。
　数秒の、間。
　「せーの、ハイッ！」
　娘のストレングスの合図で、一斉に握っていた物を目の前に差し出した。
　途端、ふたりのみならず、パーティーに参加していた全員が思わず目を見開く。
　花束。
　しかも、今さっき摘んできたと思われる芳香を放つ。
　ひとりひとり、鮮やかな色彩の花弁をふたりに向けていた。
　小さな手いっぱいに溢れる、香りの乱舞。
　「わあ・・・」
　ハイエロファントが、目を輝かせて声を漏らす。
　デスは、茫然としてしまった。
　「おめでとう！　ふたりとも！」
　ストレングスが祝いの言葉を口にしたのを皮切りに、残る子供たちも次々と言う。
　「おめでとうだモン！」
　「お兄たん、お姉たん、カッコよかったでちゅ！」
　「ちゃあ、ちゃあ」
　「アニョーン！」
　法王が、それを彼らから受け取った。
　続いてデスも、何とも覚束ない仕草で手にし始める。未だに彼女は、これほど幼い者たちからの祝辞を受けたことに驚きの表情を崩してはいない。
　「ありがとう、みんな。僕たちの為にわざわざ摘んできてくれたんだね？」
　優しい声色で、ハイエロファントは語り掛ける。
　ストレングスが、鼻の頭を掻きながら言葉を返す。
　「アタイらに出来るプレゼントって言ったら、せいぜいこんなもんくらいだけど・・・」
　「最高のプレゼントだよ。ホントに、ありがとう」
　法王の暖かい礼を受け、彼女は満面の笑顔になった。
　それを傍らで見ていたマジシャンが、子供たちと死神に目線を投げつつ口を開く。
　「私の時は受け取ってもらえなかったが・・・」
　張りはあるが、少し寂しそうな声質だ。
　すると、新たに果実酒を注いだグラスをふたつ持ったハイプリエステスが、側から片方を彼に差し出して言う。
　「子供たちの笑顔には勝てないざますよ」
　そして、にっこりと微笑む。
　盃を彼女の手から受け取った魔導士は、清んだ視線と落ち着いた笑顔を向ける。
　「・・・ありがとう、レディ」
　彼の言葉に、感謝と心の温もりが感じられた。
　一方、娘のストレングスはデスに正対して、じっ、と見詰める。
　「どうした？」
　新婦が目線を返し、問う。
　少女の眼差しが、自分よりも遥かに高い位置を見るようなものへと変化する。緑色の透明な瞳に、僅かな潤みすら持って映し出されている死神の姿は、まるで憧れの人物を目の当たりにしたかの如く輝いていた。
　暫しの後、娘が言葉を紡ぐ。
　「びっくりしたよ・・・アンタ、凄く綺麗だった・・・」
　声には、淑やかさが滲み出ている。
　「アタイもいつか、アンタみたいな素敵なお嫁さんになれるといいなぁ・・・」
　そう聞いた途端、デスは柔和な笑みを浮べる。
　こんな幼い子までがおのれの晴れ姿を褒めてくれた事実は、彼女の裡に新しい感動を植え付けた。気持ちも大らかになり、温かさを覚える。
　デスが、娘の瞳を覗き込むようにして屈む。そして、少し悪戯っぽい口調で言った。
　「式には、あたしとハイエロファントを呼べよ。まあ十年早いが、今のうちに言っておく」
　「うん！」
　嬉しそうに、少女が返事をする。
　「ダメだズォ！　ムスメはヨメにやらんズォ！」
　「馬鹿だね！　まだずっと先の話だろ！」
　父親のストレングスの台詞に、エンプレスが割り込む。
　可笑しなやりとりに、宴の席に爆笑が起こった。
　何とも言えない、楽しい雰囲気がそこにある。
　そんな中で、フールがデスのすぐ側まで近付いてきて、跳ねるような明るい声で言い放つ。
　「ミョニョン！　ニョアニョーン！」
　幾許かの間を空けて、死神の顔に驚きと嬉しさの入り混じった表情が備わった。隣で微笑んでいる夫と視線を交じらせた後、傍らの男児に向けて言葉を繋げる。
　「そうか・・・今のあたしは、幸せそうな顔なのか・・・」
　デスの、満面の笑顔。
　フールが何度も何度も頷く。
　そして。
　女帝がグラスを高々と掲げて、大きな声を上げた。
　「よおし！　今日は騒ぐよ！　アタシが許す！」
　拍手と歓声が湧く。
　それから永い時間、デスとハイエロファントの結婚を祝うパーティーは、いつ終るともなく続いた。

　夜は、すっかり帳を下ろしている。
　宴が終了してから、ふたりは真っ直ぐに自宅へ戻ってきた。何しろ、夜明けと共に起き出し、準備を行った後にすぐ城に出向いたのだ。そして漸くこの時間になって、すべての行事から解放された。
　気も、身体も、疲労感を覚えている。
　そして新婚のふたりが、白い家の玄関に立つ。
　「デス、本当にお疲れ様」
　ハイエロファントは、扉を開ける前に妻を見詰めて労いの言葉を掛ける。
　「大変だったね、今日一日。慣れないことばかりだったよね」
　「まあな・・・」
　吐息混じりに、彼女は答えた。しかし顔には、微笑みを湛えている。
　「確かに大変だった。だが、楽しかったな」
　夫を、見詰め返す。
　「今日は・・・一生忘れられない日になった・・・」
　穏やかで、尚且つ真摯な口調である。
　ハイエロファントが身体を向け、デスに眼差しを注ぎ込む。笑みを浮かべてはいるが、その瞳は真剣そのものだ。
　彼女も呼応するように、正面から彼を見る。
　暫くして。
　先にハイエロファントが、言う。
　「僕たちは、夫婦になったんだね・・・」
　心底に染み入るよう、ゆっくりと言葉を口にする。
　刹那の時間でそれは言霊となり、互いに吸収された。
　そしてデスが、言う。
　「あたしたちは、ずっと一緒にいられるんだ・・・」
　絡まる、視線。
　ふたりの裡に存在するのは、深い、熱い、強い感情。
　相手への限りない想い。
　この日、それが五千を超える人々の前で昇華し、何者にも砕けない堅固な結合を実らせた。
　やがて。
　ふたりの影が重なり、家の中へと消える。
　デスとハイエロファントは、夫婦としての永い人生を共に歩き始めた。

　ふたりの挙式を見た人々は、後の代まで語る。
　あれは、我がマジカルランドの凛々しい法王と、純白の衣裳を身に纏った、この世界の魂と生命を一身に背負う死神という名の女神の結婚だった、と。
　まさに奇蹟だった、と。