HA-NA

 山あいの街から谷筋を中腹まで上がると、水源地になっている小さなダム湖がある。
細長い湖に沿って作られた遊歩道の奥は僅かに広いスペースがあって、、古ぼけたベンチや東屋が辛うじて公 園だと主張している。
できた当初は地域の人々にも桜の名所として知られる場所だったのだろう。遊歩道の片側は桜並木になってお り、公園のエリアにも桜が他の樹木と共に枝を広げている。
4月の上旬、咲きそろった桜はそろそろ終わりのようで、散り際の見ごろだ。
だが山あいの忘れられたようなこんな場所に、平日の昼下がりに訪れる人もなく、見る人もないままに薄紅色 の花弁ははらはらと散り始めていた。


 「こんな場所…よく知っていたわね、ギロロ。」
小さな公園の奥の、桜の下にあるベンチへ歩み寄りながら、夏美は後ろを歩く夫に声をかけた。
彼女の後をとことことついて来る、小さな紅いケロン人が彼女の夫である。
 「以前、パトロールで見つけていた場所だ。日によっては誰も来ない事が解っていたので、桜が咲いたらお前 を連れて来ようと思っていた。」
夏美は今年の春に大学を卒業し、この異星人と結婚式を挙げた。
夫婦として彼女の部屋での同居を初めて間もないある日、ギロロから外出に誘われて、彼のソーサーでここに 連れられて来たのだ。
以前、まだ彼女が中学生の時に、市内の公園での花見の場所取りを彼ら異星人がかって出た事があった。
人の多い都会での花見のこと。事情を知らない彼らが首尾よく場所を確保できるはずもない。結局ソーサーで 吊り下げた台座が花見の場所となった。
そんな思い出からか、地球人(日本人)にとっての桜の花を見るというイベントの大事さを、ギロロは忘れずにい るらしい。
 「ここなら一緒に花を見ていても、誰も来ないので安心だ。まだ散ってしまわなくて良かったな。」
 「そうね、桜は7分咲きが一番綺麗だって言われてるけど…。こんな風に散って行く様子も、とても美しいと思う わ。」
夏美が古い丸太でできたベンチに腰をかけると、ギロロもベンチに飛び乗り彼女の横に座った。
並んで桜の木を見上げながら、しばらく薄紅色の花を楽しむ。
 霞のかかったような空に、綿雲が数個浮かんでいる。柔らかな日差しは太陽に面した膝や胸元をほんのりと 温め、辺りに降り注いでいる。
道沿いに植えられたたくさんのソメイヨシノは殆どが満開を過ぎているようで、風のない中でも花びらがちらはら と舞い落ちる。
辺り一面を覆う花々は、咲き始めの頃のような桜色はすでに薄れ、殆ど白のような淡い色に変化している。
車の音もない静けさの中、枝を行き来するヒヨドリの声だけが響き渡り、ここには誰もいないのだと二人は実感 した。
頭上を覆う桜の花々の間に春空が背景になっていて、薄紅色と淡青色の柔らかなコントラストがいかにも春の 盛りを思わせる。
足元の伸びた芝生にタンポポが数輪丸く黄色い花を咲かせていて、ミツバチが忙しなく蜜を集めていた。
 「静か…ねぇ…。」
ベンチから足を投げ出すように座った夏美は、わずかにそよぐ風が頬を撫でて行くのを楽しみながら呟いた。
 「そういう場所を選んだからな。」
ゆったりと四肢を伸ばす彼女の横で、ちょこんと胡坐をかいたギロロは、腕を組みながら返答する。
夏美はちょっと物足りなそうに目元を曇らせたが、夫になったこの異星人のこういう風なもの言いは、今に始ま った事ではないのをすぐに思い出した。
そっけないもの言いとは裏腹に…。おそらく今日桜を二人だけで見るために、適した場所を探しまわったのだろ う。
そんな、陰の努力を見せまいとする彼の性分も、夏美は十分に解っていた。
 「ねぇ、ギロロ。あんたとこうして桜を見たのって…これで何回目だろうね?」
 「…さあな?」
ちょっと考えるように視線を上げて、照れたように応える夫に、夏美は思わず笑みを漏らす。本当はしっかりと覚 えているはずだ。
 「結構…何回も一緒にお花見をしたわよね。桜の花にも、もう馴染んだんじゃないかしら?」
 「ああ。この花の色も、形も、よく覚えた。ケロン星にもいろいろな花があるが、地球のこの花は、俺も好ましい と思う。」
桜の花が好きだと言う、この異星人の夫に夏美は少々意外な気がした。武器や闘いのプロである夫は、普段花 を愛でる様子など見た事がない。
故郷ケロン星の花であればまだ思い出により印象深い花もあるだろうけれど。地球の花を好きだと言う夫に、ふ とその訳を知りたくなった。
 「あんたは桜の花の、どんな所が気に入ったの?色かな、それとも一度にたくさん咲くところかしら…。」
首をわずかに傾げて聞く新妻の可愛げな仕草に、見惚れるようにしばらく見上げて、ギロロはゆっくりと前を向い た。
 「そうだな。この花のこうして一度に咲く豪華さは確かに素晴らしいと思うが…。俺が好ましいと思ったのは、こ の花の散り方だ。」
 「散り方…?」
夫の答えに、夏美はその言葉を繰り返した。
 「ああ。この花は一斉に開いた後、一気に散るだろう。咲き終わったとなると、風があれば一日で散って行って しまう。
 名残惜しくしがみついたりはしない。潔いまでに鮮やかに散って行き、後に残るのは花芯だけだ。
 俺はこの花の散り方に、戦士の死に様を見た。闘いの中で果てる時は、俺もこのように潔く死にたいと思って いた。…それが理由だな。」
 「ギロロ…。」
 「俺はずっと戦場で過ごして来た。戦場では、ほんの少しの油断も命取りになるし…、自分の意志の及ばない 理由で突然命を奪われる事もある。
 あっけなく死んで逝く戦友達を見送る中で、次こそは自分の番だと常に覚悟して生きて来た。
 もちろん任務達成のためには生き延びるのが前提であり、そのための努力も惜しまないが…。戦士にとって死 は、すぐそこにある現実だったからな。」
隣で見下ろす夏美の方を見ず、ギロロは瞑想するように目を閉じながら話す。
 「生きている間は精一杯咲き誇るように命を燃やし、死ぬ時は潔く死ぬ。残された者の記憶に僅かでも残れば それで良い。それが戦士としての俺の生き方の理想だ。
 この花の散り方に、俺はそれを見た。…だから好ましく思うんだろうな。」
淡々と話すギロロを、夏美は呆然と見つめた。彼が戦士であり、これまでの大半を戦場で過ごして来た事は、す でに聞かされて知っている。
ただ、ギロロがどんな死に様を理想として来たのかは、今日初めて聞かされた事実であった。


 急に、一陣の風が辺りを吹きすぎた。
通り過ぎる空気の塊が、散りかかった花から花弁を奪い取る。風に乗って無数の花びらは舞い上がり、ベンチ に座った夏美とギロロの周りにも降り注いだ。
ひらひらと風に乗って舞い落ちる白い花びらは、ギロロの紅い身体の周りにも纏わりつくように渦を巻く。
 一瞬、夏美の胸に、ギロロがこの花のように儚く散って行ってしまうような…そんな予感がこみ上げた。
こんな風に、自分の眼の前で…、ギロロが突然運命に連れ去られる、刺すような喪失感。


 舞い散る花びらを見上げている夫を、夏美は無言で見下ろしていたが…やがて両手を伸ばして彼をいきなり 抱き上げた。
 「…!…おい、夏美…。」
驚いて四肢をばたつかせる紅いケロン人を膝の上に乗せて、後ろから両腕でぎゅっと抱き締める。
 (ギロロが…消えてしまうような気がした…)
全身で包み込むように抱き締め、腕の中の熱い身体がやがて大人しくなるのを待って、夏美は絞り出すような 声で囁いた。
 「今も…そう思う?」
 「…何?」
頭上から降って来る夏美の静かな声に、ギロロは腕の中でゆっくりと振り向いた。
 「あんたが戦士なのは元からだもの。戦士としてのあんたには、死が特別なことじゃないのは解るわ。
 あんたがそうやって生き延びて来た日々は、ちゃんと聞かせてもらったもの。理解できない訳じゃないの。」
自分の身体に回されたしなやかな腕に、ギロロはそっと小さな手を置いた。
 「だけど、あたしの夫としてはどうなのかな?こうしてあたしと結婚した…今でもあんたは潔い死が理想…?」
 「夏美…。」
 「そんなのダメよ。…私の夫になったんだから、私を残して死んで良いなんて考えちゃイヤ。…ずっと一緒にい てくれなきゃだめよ。」
責めるでもなく、悲しむでもなく。
夏美は静かな笑顔で、腕の中の小さな身体を慈しむように告げた。
 「私の夫なら…ずっといつまでも私と一緒にいて。」


 ギロロは、自分の身体に廻された暖かい腕が、わずかに震えているのに気づいた。
自分は、軍人であり、戦士である。戦士としては、闘いの中でいつ果てても悔いなど無いとずっと思って来た。 
それが変質したのはいつ頃からか。夏美に出逢い、惹かれ、彼女と在りたいと思うようになった時から……生き たいと、生き延びたいと、強く思った。
互いの想いを交わし合い、彼女をかけがえのない存在と思い知る程に。自分もまた彼女にとって大切な存在で あり、彼女を置いて去ってしまう事の罪深さを実感した。
今の自分には、夏美を置いてこの世を去ろうと言う気持ちは、微塵もない。 
 腕の震えが止むまで少しの間無言で待って、やがてギロロはするりと彼女の腕を抜け出して膝の間に立った。 両手で妻の頬を包み、そっと唇を触れ合わせる。
 「…済まなかった、夏美。」
正面から彼女の目を覗きこんで、ギロロは優しく詫びた。
 「お前を悲しませようとして言った訳ではなかったのだが…。確かに夫として配慮に欠けた言い方だったな。」
夏美の睫毛がわずかに濡れているのに気づいて、そっと舌で雫を舐めとる。
 「幸運にもお前の夫となった今、無論自分の命を粗末に考えている訳ではないぞ。
 俺がお前の命を何よりも大切に思っているように、お前もまた、俺の命を大切にしてくれているのも解っている つもりだ。
 桜の花の散り方が好きな、戦士としての俺は確かに存在するが…、同時にお前のために生き続けたい自分も 真実の姿だ。」
 「そう…なの…?」
 「勿論だ。俺がお前に嘘を言った事があるか?」
 「……いっぱいあると思うけど…。」
二人の脳裏に、彼がプロポーズをするきっかけとなった宇宙警察との共同作戦での、ギロロが夏美についた嘘 が甦った。
 「確かに…あるな…。済まない…。」
ギロロは思わず顔を伏せて、しょげた様子で謝った。
 「…馬鹿ね。信じてるわよ。」
ベンチの上で見つめ合いながら、ギロロと夏美は思わず声を上げて笑い合う。こんな風なやり取りを、もう何回 繰り返して来ただろう。
僅かな風に乗って、数枚の花びらが膝の上に舞い降りた。
 「もう…あんたはいつもこんな感じだけどさ…。」
夏美は晴れやかな表情で顔を上げた。視線を巡らせると、白い木蓮の花が目にとまった。
東屋の横に木蓮の木があって、白い鳥のような花がいくつも上を向いて枝についている。
ただ、花の盛りをすでに過ぎているようで、見事な乳白色の花弁は一部茶色を帯びて縮れていた。
花によっては茶色く朽ちた花弁が垂れ下がりながら、それでもがくにしがみついている様子を、夏美はじっと見 つめて指さした。
 「見て、あの白木蓮の花を。…あんな風に花びらは色が変わって縮れても、枯れ切って落ちるまでは花の傍に いるのよ。」
夏美の指の向こうにある、盛りを超えた花の様子を見てとり、ギロロはわずかに眉間に皺を寄せる。
 「木蓮だけじゃないわ。タンポポだって、花びらは散らずに付いたまま枯れるのよ。花にはいろんな終わり方が あるんだから…」
足元に咲いたタンポポを見下ろしてから、夏美はギロロの両腕をそっと掴んだ。
 「私の夫としてのあんたは、桜じゃなくってあの木蓮みたいに生きて。どんな姿になっても、最後の瞬間まで私 の傍で生きて。…お願いよ。」
枯れかけたあの花のように生きてと言われ、ギロロは意外そうに顔を上げた。
 「あの花の…ようにか…?」
 「そうよ。あんたの妻になった私も、あの花のように、最後まであんたの傍にいるわ。」
柔らかな笑顔でそう言った後、夏美の表情がわずかに曇った。
 「ただ…年老いて、姿の変わった私を見て、あんたはそれでも私を綺麗だと…好きだと言ってくれるのかしら ね?」
 「馬鹿な事を。お前はどんな姿になってもお前だ。お前の魂の美しさはいつになっても変わらないし、俺がお前 を厭うなどあり得ない事だ。」
彼女が話し終わる前から、ギロロは強い口調で否定する。真剣な目で夏美の顔を覗きこみ、甘く低い声で告げ た。
 「俺はお前を置いて先に逝く事はしない。お前の傍に居る。…お前に惚れてからは、ずっとそう決心してい る。」
 「…フフフ…、そうしてくれるなら嬉しいな。約束よ。」
 「当然だ。お前こそ、俺を厭うことなく傍に居てくれ。俺の方こそ、お前に約束して欲しい。」
 「そうね…守るわ、その約束。心配しないで…。」
サブリナパンツをはいた夏美の膝の間に立ったままのギロロは、そっと夏美のうなじに手を伸ばして、彼女を抱 きよせた。
ギロロの小さな肩に頭を凭れかけて、夏美は夫の身体の熱さをその肌で感じ取る。彼の背中にそっと腕を回し て、より彼に近づこうとした時に・・・。
風向きが変わったのか、それまでは時折過ぎるだけだった風が、ごうっという音と共に谷筋を駆け抜けて来た。


 白みがかった薄紅色の花びらに覆われた枝に風が吹き過ぎると、まるでそれを待っていたかのように、大量 の花びらが舞い上がった。
おそらく何億という数に上るだろう。咲き誇った花から離れた花弁が、風の流れに沿って一気に舞い散る。
あとから、あとから。風は止むことなく吹きすぎて、桜の枝から花びらをかすめ取って行く。
まるで吹雪のように、辺りの空間が全て花びらの乱舞に覆われて、地表近くで渦を巻いて再び空中に巻き上げ られた。
ヒヨドリ達が驚いたように枝から枝へと飛び移り、チューイチューイと甲高く鳴き交わす。
 突然の風が引き起こした、花の幻想のような光景に、ギロロと夏美は息をするのも忘れたかのように見惚れて いた。




 「何て…綺麗……。」
 「ああ…美しい。」
しばらく続いた花の乱舞がようやく静まった頃、二人はため息交じりに呟いた。
 「桜の散るところはこれまで何度も見たけど、こんなにたくさんの花が一度に散るのは…なかなか見られない わね。」
ようやく突風が治まり、桜の並木に静けさが戻った。芝生に散乱する花びらが、先ほどの花吹雪の余韻を残す。 再びはらはらと疎らに散るだけに戻った桜の木を見上げて、夏美はベンチから立ち上がった。数歩、前に歩いて から急に振り返る。
 「ねえ、ギロロ。」
 「…何だ?」
ベンチの上に立ったまま答えるギロロに、にっこりと微笑んで首を傾げる。
 「こんな風に、桜の花のように一気に潔く散るのも……悪くないかも知れないわね。」
 「……そうだろう?」
夏美の笑顔に悪戯っぽい表情が混じるのを見て、ギロロは微笑んで頷いた。
 「だが…。あの木蓮のように、枯れ果てるまでしぶとく残る…そんな生き方も悪くはないな。」
 「…でしょ?」
ギロロの言葉に、夏美もまた満足そうに頷く。
はらはらと花びらの散る中、二人は互いを見つめ合って告げた。
 「どっちにしても…、最期の時にはあんたと一緒に居たいな。」
 「そうだな。どちらが先に逝く事になっても…最期の瞬間は共に過ごそう。」


そしてギロロは、頭上を占めるこの異星の花を見上げて、そっと目を閉じる。


 「その後、生まれ変わっても……まためぐり逢って一緒に暮らそう。」


 微風に混じるギロロの微かな呟きを、夏美は確かに聞いた。
 ゆっくりと頷き、口の中だけで囁く。


 「…うん…。約束よ……。」




 霞がかった空の上で、太陽は柔らかに輝き。
谷あいのダム湖を囲む道を覆うような桜の木々は、薄紅色の花びらをあとからあとから散らして行く。
春の一日は、今年夫婦になったばかりの、星を超えた二つの魂を包み込んで過ぎて行った。





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