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開け放たれたサッシの外から、柔らかく暖かい微風が吹き込む。
それは麗らかな春の陽射しの香りをいっぱいに含んでおり、瞬く間に日向家のリビングは彩り を感じさせる空気に満ち溢れていった。 鼻腔をくすぐられる妙な感覚に、竹細工で編まれた籠の中の嬰児が瞼を開く。 真っ白い毛布に包まれたその子は、自分の現在状況を把握するのに時間を要しているらしく、 未だぼんやりとした視界の中を忙しく瞳を動かしていた。ふわり、と浮いてしまいそうな細く柔和 な赤い髪の毛が揺らぐ。顔かたちが完全に整っていない面立ちだが、綺麗な弧を描く吊り目が 既に際立っている。 その視線に、傍らに座る自分の母親の姿が捉えられた。 途端、まるで待ち構えていたかのように、編み物をしていた彼女が、はた、と顔を上げて、隣 にある竹篭に横になっている我が子を見詰める。こちらに向けられる眼差しは穏やかで、温か く、無限の安堵を覚えさせてくれるものだ。 「・・・起きた？」 母が声を掛けた。赤毛をツインテールに纏めた髪型が、傾げる首に遵って揺れる。 嬰児の顔に、緩やかに微笑が浮かぶ。 それから母親は、編み掛けの毛糸や編み棒を一纏めにして、テーブルの横に置いてある別の 籠に投入した。終えるとすぐに、白い毛布ごと我が子を両手でしっかりと抱き上げる。初めての 子であるにも拘らず、赤子に無駄な不安を与えない、見事に堂に入った抱え方であった。 直後。 サッシの外の中庭から、ピコピコ、という特異な足音が耳に飛び込む。 こちらに近付いてくるそれを聞いて、嬰児が一層の笑みを口許に湛えた。 やがて、窓枠と外部の境に立った、紅い体躯の小柄な人物がこちらをしっかりと見る。そして 自分の妻と子を確認して、吊り上がった両眼に嬉しさを帯びさせ、一度大きく頷く。 夫の姿を見詰める母親も、鮮やかな満面の笑顔を向け返す。 「今しがた、ガルルから連絡があった」 父が口を開く。脳髄に直接響いてくるような、深遠で魅惑的な声。 そう言ってから彼は、我が子が視線をこちらに投げていることに気が付いた。サッシの縁を跨 ぎ、ゆっくりとソファーに腰を下ろす妻の許に歩み寄る。 彼女の胸に抱かれる幼子を見たまま、ギロロが話し掛ける。 「目が覚めたのか」 「うん、ついさっきね。あ、お義兄さん、何だって？」 胸元に落とした視線を再度彼に注いで、夏美が改めて問う。 ギロロは、コクリ、と一度首を縦に振って、即答した。 「ああ、間もなくペコポンに着くらしい。奴の小隊全員揃い踏みだそうだ」 そう言いながら彼が、軽やかな動作でソファーに跳び乗り、嬰児に相当近い距離に立つ。相 変わらず向けられる子の微笑みに、いつもは厳しい雰囲気すらある顔も融解していった。 何とも言えない和やかな表情の遣り取りに、夏美も目を細めている。 「冬樹はいつ到着するんだ？」 今度は別の質問が、ギロロから発せられる。 「１時までには、って言ってたケド・・・国連本部からだと２時間ではキツいと思うわ。桃華ちゃ んも一緒だけど、西澤グループ専用機でも少し遅れるんじゃないかなぁ」 「そうか・・・止むを得まい」 そう言うと彼が、スッ、と右手を自分の子に伸ばす。 宝石のような輝きを放つ瞳を、嬰児は父に固定し、待っていたと言わんばかりに自分の手を持 ち上げて、差し出されたそれを、ギュッ、と握る。おのれの右手より少し大きい紅い掌が、まるで 紅葉の如き鮮やかな色彩のコントラストを醸し出す。 夏美は繋がれた両掌を、じっ、と見詰め、艶やかな口調で言葉を繋げる。 「みんなと逢えるの、久し振りね・・・」 「ああ・・・しかも全員が残らず揃うのは、あの日以来ではないか？」 「ケロン星と地球が結ばれたあの日、ね？」 そしてギロロと夏美は、リビングを、ぐるり、と見回してみる。 ふたりは同時に、過去にあった歴史的な一日を思い出していた。 結婚後数年経った日、ここ、日向家のリビングルームに於いて、ケロン軍全権を総帥から一 任された『大佐』と、国際連合安全保障理事会に全権を委任された『西澤グループ総帥代行』桃 華が、ケロン星と地球の友好平和条約に調印したのだ。条約が結ばれたことで、地球全人類は ケロン星人を認識する運びとなった。結果、今までアンチバリアで存在を秘匿していた小隊一同 も、陽の下に姿を現せるようになったのである。 その後すぐに、夏美は夫であるギロロの存在を友人各位に伝え、紹介した。驚きながらも歓迎 してくれた親友の五月と弥生が、すぐさまウェディングパーティーを企画して開催してくれたこと が、今でも昨日のことのように、喜びを包括して思い出される。同時に、市役所に婚姻届を提出 しにふたりで出向いた時の、受付の女性が温かい言葉を掛けてくれたことを反芻し、その度に 嬉しい想いに浸っていた。 ギロロが再び、自分の子を視界に映して、囁くように言葉を紡ぐ。 「今日はお前に逢いに、大勢来てくれるんだぞ」 「パパとママの初めての赤ちゃんの、あなたにね」 夫と同様に我が子に視線を注ぎ、夏美も優しさを溢れさせた声色で語る。 ふと、ギロロは顔を上げて夏美を見詰める。 即座にそれに気付いた妻に向け、彼がやや口籠もるような調子で話した。 「夏美・・・やはり“パパ”という呼び方は、俺には似つかわしくないのだが・・・」 「そう？ 慣れればどーってコトないわよ」 至極当然、と言葉を続けられそうな流れで、夏美が口を開く。 そして、僅かに眉根を寄せてから口を尖らせ、まるで拗ねたような甘さを隠している雰囲気を 言葉に塗し、ギロロに返した。 「あたし、この子に“かーちゃん”とか呼ばれたくないわよ？」 「いや、夏美は『ママ』と呼んでもらえばいい。俺はどちらかと言えば・・・」 「『親父』とか『とーちゃん』って呼んでほしいんでしょ？ 確かにそっちの方がギロロには似合 うかも知れないケドね」 そう言った後、ふたりの眼差しが宙で絡み合う。 途端に、ふっ、と柔らかい空気が互いの間に湧き出て、見る見る嬰児に降り注いでいった。 やがて、言語を必要としない意見の遣り取りが瞬時に交わされたかのように、ギロロと夏美は 納得し切って満ち足りた笑顔を向け合う。 「・・・好きな呼び方で呼んでくれれば、いいか」 「そうね・・・この子に任せましょ」 そして夫婦は、初めての我が子にしっかりとした視線を結わえる。 未だに繋がれたままのギロロと子の右手の上から、夏美がゆっくりと右手を被せた。すべてを 受け止めるが如く優しい動きと仕草で、夫と嬰児の掌を握り、ぎゅっ、と力を込める。 溶けて混ざり合うかのように、親子三人の右手がしっかりと繋がれている。 揺るぎない意志と何より温かい慈愛を両目に漲らせ、ギロロと夏美が語り掛けていった。 「感謝する。お前が俺たちの子として、生を受けたことに」 「生まれてきてくれて、ありがとう」 「安心しろ。何があってもお前は、俺たちが護り抜く」 「あたしたちが、絶対に幸せにするからね」 直後。 絶対の安堵感と無限の歓喜を全面に表し、幼子が満面の笑顔を見せた。 一点の曇りもない煌きを両の瞳から放ち、おのれの父母に全力の表情で応える。 ギロロが、頷き返す。 夏美が、頷き返す。 そしてふたりは眼差しを動かして再度見詰め合い、言葉を発さずに意志を確認し合う。 見事な同調の間合いで、互いに頷き合った。 堅固なる想いと絆の確信を、向ける笑みに込めて。 日向家に最初に到着したのは、ガルル小隊だった。当初から家にいたケロロと秋が彼らを出 迎える。ガルルはケロン星の様々な出産祝いの品を大量に持参し、秋がいそいそと居間に運 び込む。 ほとんど差がない時間を置いて、ダークケロロ小隊が駆け付ける。こちらも、現在駐留中の惑 星の名物とやらを、小型コンテナに詰め込んで持ち込んだ。 五月と弥生が来た時、彼女たちはリビングに集う見知らぬケロン人たちに驚いた様子だった。 それでもすぐに雰囲気に打ち解け、遥か遠く離れた惑星の話をやたらに聞きたがっていたそう だ。 時間丁度となった頃、秋奈が来訪する。自分の初曾孫を目にして下瞼を潤ませていた。 クルルとモアが時間より僅かに遅れて帰宅した。何かの打ち合わせに手間取ったらしい。 開催予定時刻を十分ほど回ってから突然、キッチンの片隅の宙が微かな空気振動を伴って円 形に開き、極彩色の内側からタママ、桃華、そして冬樹が飛び出してくる。どうしても遅れると見 越したタママがふたりの許に急行し、超空間ゲートを繋いで馳せ参じた次第だった。 そして、まるで全員が揃うのを待ち構えていたかのように、ドロロと小雪が静かに参上する。 いつの間にか、野営テントによく訪れる白毛の仔猫も、リビングのテーブル脇に陣取ってい た。 やがて。 招待された全員が、リビングとキッチンを開放した会場に揃う。 それから、純白のベビィーウェアを着込んだ我が子を毛布を敷いた籠に寝せて、それを自分た ちの間に置いたギロロと夏美がソファーに座ったのを見計らってから、ケロロが高らかに開式を 告げた。 秋が乾杯の音頭を取り、賑やかで楽しさこの上ない祝いの席が展開を始める。 ケロン人と地球人の初めての嬰児となったギロロと夏美の子は、入れ替わり立ち替わり多くに 見詰められる。傍らでしみじみと目線を注ぐ者や、笑わせようと妙な表情を作っている者もいた。 それらの誰しもが、我が事のような心よりの深い嬉しさを全面に浮かび上がらせているのだっ た。 宴も進み、暫くして。 クルルが突然、卓上ラジオと映像ディスク再生機を並べてテーブルの上に置く。何事かと注目 する周囲の視線の中、再生機の画面にある人物が映し出される。 『大佐』であった。 淡々とであるが、威厳が一本の芯となった声色で、ところどころに優しく柔らかい彩を被せて 『大佐』が祝いの言葉を継いでいく。 その時、真剣に聞き入る全員の後方、部屋の隅に薄く霞みのような姿が立っている。 いつもは地下にいる筈の幽霊少女、お観世だ。彼女は何とも形容し難い切な気な、尚且つ嬉 しそうな微かな笑みを湛えて、モニターに映されている『大佐』を見詰めている。 ディスクの再生が終わり、続いてモアがラジオのスウィッチを入れる。予め設定されていた周 波数の放送局の音声が僅かなノイズを伴って流れ始め、そして軽やかに午後二時の時報を告 げた。 直後、スピーカーが睦実の声を放つ。 少し驚いた様子で、ギロロと夏美が顔を見合す。彼の担当する番組はまったく別の枠であり、 この時間にコーナーなどは持っていない筈だった。その場の多くが疑問を抱いていた矢先、解 答はＤＪ本人から示される。電波仲間とその相方の依頼と交渉で特別に番組枠をもらった、との ことだった。 ハッ、と会場の目線が、クルルとモアに一気に集まる。その中、にこやかにピースサインを出 すアンゴル族の娘と、知らん振りをしてそっぽを向く曹長が好対比で、皆の笑顔を誘う。 睦実は、いつもよりも穏やかで噛み締めるように語りを繋げていく。ケロン星と地球という距離 を物ともせず、広大なる宇宙を越えて結ばれたふたりと、誕生した新しい生命に心よりの祝福 を、と。 続いて放送に乗ってきたのは、美しく透明な旋律の歌。 無垢で落ち着いた綺麗な楽曲に、遥か天の淵まで昇って行きそうな高音のヴォーカル。 その場の誰もが、様々な想いを心に宿しながら、生まれ来た子の存在を裡に刻み付ける。 ケロン星と地球が繋がった今、これからも異星人同志の間に多くの命が紡がれ、この世に生 を受けるであろう。姿かたちに囚われない、果てなき想いを抱いて交し合うことが可能であるこ とを、最初に実践したふたりが証明してみせた。 そして―――それが如何に素晴らしいことであるか、も。 彼らの許に集った多くの者たちは、言葉にしなくても確実に理解している。 ギロロ伍長と日向夏美の、恒久なる愛情と絆を。 曲の流れる中、ふたりは我が子に温かい眼差しを改めて注ぎ、心で語り掛けた。 （感謝する。お前が俺たちの子として、生を受けたことに・・・） （生まれてきてくれて、ありがとう・・・） （安心しろ。何があってもお前は、俺たちが護り抜く！） （あたしたちが、絶対に幸せにするからね！） それが聞こえたのか。 横たわる嬰児が、輝かしい笑顔を弾けさせた。 ギロロは夏美を見詰める。 夏美はギロロを見詰める。 我が子と同様の至宝の笑みを、交し合った。 【 ギロロと夏美の物語 完 】 |
