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書斎は、一面の蒼白い光の海。
窓に近い長椅子に、デスは横たわっている。 微かな、静かな寝息が漏れていた。肩まで薄手の毛布で覆われ、こちら側を向いた瞼は堅く 合わさって開く気配がない。 ハイエロファントが、ただじっと、身動ぎもせずに彼女の寝顔を見詰めている。 長椅子に対して据えられた単座に、居住まいを正している。 いつものこの時間にはほとんど閉じられているカーテンが、これでもかというくらい大きく左右 に開け放たれて分かれていた。今はまさに、深夜の帳が完全に根を張っている時間だ。外と部 屋の裡を隔てているのは、余計な装飾はないがしっかりとした作りのガラス窓だけである。そし てそれを通して、この家に来訪している者がいた。 月の光。 正円に満ちた衛星が注ぎ込む、蒼と白の至極の調和。 この光の奔流が、ハイエロファントは好きだった。 そんな中で、彼はただひたすらデスに視線を固定し続けている。 普段は寝室で眠る筈の少女が、珍しく長椅子に腰掛けたまま寝入ってしまったのだった。この 書斎にある膨大な書物のひとつを手にした状態で、少年が気が付いた時には背凭れに完全に 身を委ねて、睡魔の誘惑に負けていたのである。それから彼女をゆっくりと横向きに寝かせ、普 段自分がここで使用している毛布を掛けて―――既に半時以上が経過していた。 その間、法王の少年は向かいに椅子を置き、デスを瞳に映しながら思考を巡らす。 こうしてふたりだけの時を過ごすようになって、もう一月になる。今まで生きてきた中の様々な 瞬間と比較しても、彼女と空間を共有したこの期間は別格のものだ。毎日が楽しい。そして充実 している。もちろん過去もそれなりに良い時期であった。だが、デスと一緒にいる時間の、何と 満ち足りていることか。 初めて出逢った日からずっと心に彼女の姿がある。街を見下ろせる高台で声を掛けたあの一 瞬に、まさに彼の気持ちは大きく動いていた。更にそれは、この二ヶ月弱で幾多の事件と葛藤 を絡ませて、少女に向ける深くて果てしない想いへと変質させたのだ。 しかし、ハイエロファントは同時にある感情を抱く。 罪悪感。 デスの運命を消し去り、底知れぬ苦痛を与えたという事実に於ける贖罪の意識。 以前に彼女はそのことについて、もういい、と語ったことがある。行われたことよりも未来、とも 口にしており、少年が重圧を感じている事実に断罪と追求を行う様子はない。その日より少女 は、自分にドロップを使われた行為ですら一切言及していない。 そんなデスの気持ちを、正直ありがたいと思っている。 だがそれでも、自身を寛容することなどハイエロファントには出来なかった。 例え刹那の間であったとしても、想像し難い苦しみと悲壮感を誕生させた行為自体が、許され ざる史実なのだ。 しかし、過去は消せない。かつて少女が話したことは至言だ。 修正不可能な出来事を、これからどう裁断すればいいのだろうか。 その上、自分はデスの人生を預かっている。彼女は罪を犯した相手に、大切な、尚且つ簡単 に扱えない最重要級の懸案事項を快く委ねてくれたのだ。普通に考えても、おのれに対して侮 蔑に値する行為を働いた相手に、生きていく本質に関わる部分を任すことが出来るだろうか。 やはりどう考察しても、二の足を踏むのが当然ではないか、と結論付ける。 だが―――デスはそれを躊躇なく行った。 このような自分を、生き方への水先案内人に指名してくれたのである。 ハイエロファントは、深く真摯な感謝の念を抱くのと平行して、彼女の懐の広さと壮大なる許容 心にひたすら感服していた。 月光の溢れる部屋で時が経つにつれ、次々と少年の裡に様々な感情が浮かんでくる。 今、少女を見詰める彼に存在する気持ちは五つ。 デスとふたりきりだということを自覚した緊張。 彼女と過ごす時間を振り返った高揚感。 自分への叱責。 そんな事実を容赦してくれた少女への尊敬。 もうひとつは。 それら四つ全体を覆い尽くす、凄まじい奔流の如き―――眩いばかりの心。 相反する質の違うひとつひとつの間隙を、その流れは隈なく埋めていく。そして、ともすれば平 衡を崩してしまいそうな絡み合って入り組んだ多様な気持ち同志を、現在の彼の内部でしっか りと繋ぎ止めていたのである。 ただ、ハイエロファントにはこの内面状態が続くことに不安があった。 こういった複雑で幾重にも堆積した自分の感情は、これから彼女と過ごしていく時間に悪い影 響を及ぼしてはしまわないか。 解答は、出ない。 何度考えを走らせても辿り着かない。 更に、時は過ぎる。 もう頭の中での螺旋はどれくらい描いたことだろう。それがほんの僅かの瞬間、勢いに緩みを 見せた。その直後に彼の裡の最も深遠なる場所から、ひとつのものが浮上してくる。 自分の、夢。 一瞬でそれが、目の前の女性と結び付く。 デス。 彼女となら、夢が実現出来る。いや、彼女と実現させたい。 だが少年は頭を振る。余りにも我儘過ぎるからだ。誰が見ても、誰が考えても自分勝手極まり ない行為だ。恐らく少女も拒絶するだろう。あれだけのことをしておきながら、と呆れ果てるに違 いない。 でも、もし許可してくれたら。 如何なる艱難辛苦をも耐え抜くことが出来よう。 この整理されてないおのれの内側にも、何らかの方向性が生まれ、統合されるかも知れな い。 断わられてもいい。話してみたい。 近い内に話そう。 ハイエロファントは、心に誓う。 しかし、実際にそれをデスへ告げるのに、この日より一ヶ月の時間を要する。その期間中ずっ と、彼は躊躇と決意を行ったり来たりしていたのであった。 |
