|
三月もあと半月ほどで終わるというのに、春の足音は未だ聞こえない。
その日も厚い雲が垂れ込め、日差しもなく朝から肌寒かった。 麻宮アテナは、夕刻より行われるコンサートのリハーサルと音合わせを終え、今は靖国通りを 駅の方向へと歩いている。楽屋入りするまで二時間余り、何となく気晴らしをしたくなった彼女 は、マネージャーに懇願し了解を取り付け、外出を実行に移した次第だった。 東京厚生年金会館から五分も歩けば、左側に広大な売り場面積を誇る店舗の建築物が見え てくる。アテナは噛み締めるようにのんびりと、周りの風景を眺めながら歩いていた。 既にＣＤシングルやアルバムを何枚も出している彼女は、マネージャーから言われたのであろ う、簡単な変装をしている。黒いチタンフレームの伊達眼鏡、クリーム色をしたニットの帽子を着 け、ちょっと見ただけでは『麻宮アテナ』と判らない。しかし熱烈なファンにかかってしまえば、こ の格好は何の防御策にもならないと思われた。声を聞けばもちろん、じっくり見れば認識される のは時間の問題だろう。 それでも、ほんの二時間くらいだ、とアテナは気軽な調子で歩道を進み行く。 新宿五丁目の交差点を向かい側に渡り、伊勢丹の正面を通り過ぎる。脚を前進へと稼動させ たまま、彼女は反対側に大きく陣取るドーナツショップの看板を見上げた。非常によく目立つそ れは、ふらりと立ち寄ってみようか、という感情を起こさせるに充分だ。 （帰りに・・・買ってこうかな） そう心に決めると、さらに先へと歩く。 ふと、街頭に大音量で曲を流すＣＤショップが目に留まった。耳に届くのは発売間近の新曲で あろうか、ヒットチャートを毎度賑わすバンドのものであると思われる。 アテナは何の気なしに、ふらりとその店に足を踏み入れた。 特にＣＤが欲しかった訳ではない。本当に、ただ何となく、である。 だが偶然の巡り合わせが、そこに待っていた。 自動ドアをくぐって店内を見渡す。そこには五、六名の客がいた。 突然、彼女の歩みが止まる。心臓が、ドキッ、と跳ね上がり、ある人物の後姿に目線を釘付け にされて、全身を凍て付かせた。 黒のコートが長身を引き立たせる。肩には楽器用のキャリングケース。 そして―――鮮やかな、裡なる感情を表現したような赤い髪。 アテナが、ふっ、と笑顔を浮かべた。彼女のよく知っている男性が、そこにいたからだ。 そして、店の奥側にいる彼に歩み寄る。右方向の通路から回り込み、やや離れた位置でその 横顔に視線を投げた。 男性は、あるＣＤのジャケットを食い入るように見ている。こちらには気付いていない様子だ。 二歩距離を縮めて、アテナは彼の名前を口にした。 「こんにちは、庵さん」 声がした方にゆっくりと向いた男性は、射抜くような鋭い目線を放つ。 八神 庵は、暫く声の主を睨んだ後、口を開いた。 「・・・誰だ、貴様」 深遠な響きを持つ低音の声が、アテナの耳に滑り込む。 彼女は、ハッ、と何かを思い出し、伊達眼鏡を外してもう一度彼を見た。 「私ですよ。ごめんなさい、ちょっと判らなかったですか？」 それから程なく、庵は固定していた視線を外しながら言う。 「・・・貴様か」 今度は判ったようだ。 アテナは眼鏡をかけ直し、男性の手にしているＣＤに目をやる。誰のアルバムだろうか、白地 の表ジャケットにはそのミュージシャンの青み掛かったモノクローム写真が使用されていた。 しかし彼女がじっくり確認する前に、庵がそれを元の陳列棚に戻してしまう。そしてこちらに目 線を向けず、アテナに問いを投げた。 「何故貴様がここにいる？」 「今日は厚生年金でコンサートなんです。六時半から」 屈託なく、明るい調子で彼女が返答する。 「ちょっと気晴らしに出て来たんです。まだ楽屋入りまで時間あったんで」 その言葉にも、庵は特に関心を示す様子がない。相変わらず正面の棚を見たままだ。 アテナも彼と同じ場所に視線を移した。そして話を続ける。 「庵さんはこれから練習ですか？ それともライブですか？」 僅かの無言の間があり、庵は短く返す。 「練習だ」 何とも、素っ気ない。余計な口を出すな、とでも言いた気な調子だ。 庵は趣味がバンドと公言しているように、音楽に深く従事していた。主にベースを担当し、自ら 作詞や作曲を手がける。過去、参加した三つのバンドのインディーズ盤ＣＤアルバムがリリース されていた。しかし、ソロとしては未だメディアを発表していない。 アテナは、庵の参加したＣＤアルバムを六枚、すべて購入していた。 庵との出逢いは、「ザ・キング・オブ・ファイターズ」―――『ＫＯＦ』と略称される、世界を舞台に した格闘大会だ。彼に対する第一印象は、決して良いものではなかった。何とも冷酷な口調、 そして情け容赦の欠片もない戦闘は、目の当たりにした者に恐怖心を覚えさせるのに充分過ぎ る。最初はアテナも御多分に漏れず、その感情を抱いた。 そんな彼女の気持ちが和らぎ、変化したのは、ある音楽会社の企画がきっかけとなった。 「バンド・オブ・ファイターズ」通称『ＢＯＦ』―――あの格闘大会参加者を中心に結成された、期 間限定のバンドだ。もともとデビューを果たして活動していたアテナは、すぐに候補に挙がり、ヴ ォーカルとして決定した。その次に決まったのが、アマチュアでの活動を評価されて推挙に至っ た庵だったのである。 初めて庵と練習をした時、彼の音楽に対する姿勢に、彼女は驚きを禁じ得なかった。 音に関して真摯なまでの拘りと、妥協を許さない創り方。真っ直ぐな意見。 格闘大会で見てきた印象とは違う、ひとりの真剣なミュージシャンがそこにいた。 自分も音楽に、それなりの情熱を注いできたつもりだった。しかし庵の考えや発言から、そん なおのれの感覚がいかに温いものだったかを思い知らされたのだ。 今までの彼への印象が、その刹那に変換された。以来アテナは、最大の興味を持って庵に接 するようになった。 『ＢＯＦ』の活動は、ＣＤシングル二枚、アルバム二枚、ライブが東京と大阪で二回ずつ、という 実績を残し、二年間で終了する。そしてその度に深くなっていった庵への感情は、彼女の奥深く に根付いて存在しているのだ。 企画終了後、アテナは再び歌手に専念し、庵は何れかのバンドに加わったらしい。それ以後、 ふたりは音楽業界に於いても顔を合わせることがなく、去年の『ＫＯＦ』で会うまでは消息を知る ことはなかったのである。 そして大会終了後から半年以上が経過し、今日の再会。 アテナは、何とも言えない温かい感情が湧き上がるのを覚えた。 「でも、ホント久し振りだなぁ・・・去年の『ＫＯＦ』以来ですよね。庵さんは最近ライブとかやって ます？」 少しはしゃいだ様子で、彼女は話し掛ける。 対して、庵の口調はあくまでも突き放した言い方だ。 「俺がどういう活動をしようが勝手だ。ライブだけやればいいものではない」 「ま、そうですけどね・・・でもステージでの庵さんは誰が観ても素敵ですよ」 自然と口から褒め言葉が流れ出る。アテナが日頃から思っていた感情だからだ。 「・・・俺を晒し者にでもしているつもりか？」 どうも、反対の解釈をされたらしい。アテナは、ふう、と溜息をつき、言う。 「もう、言葉通りに受け取って下さいよ。私はホントにそう思ってるんですから」 そして彼女は再度、庵が向いている棚に視線を移す。いったい何のＣＤを見ていたのであろう か。そこには、アテナがあまり聴き慣れていない洋楽のアルバムがずらりと並び、整然として鎮 座していた。邦楽を中心に聴き込む彼女は、海外のミュージシャンに疎い。恐らく、中にはテレビ ＣＭ等で聴いたことがある楽曲も含まれていようが、誰の何という曲、とは答えることが出来な かった。精々、誰もが知っているようなスタンダードナンバーが判別出来るくらいだ。 アテナが、先ほど庵がＣＤを戻した辺りを、じっ、と見詰めた。まだ判らない。 ふと、彼女は問いを口にする。 「庵さん、もう一度『ＢＯＦ』みたいな企画・・・やってみる気ありませんか？」 一瞬、庵は伏せ目がちに軽く頭を垂れ、口元に自嘲気味の笑みを浮かべた。 「俺にまた、あのお遊びをやれというのか？」 その直後、突然。 彼の発した言葉に、アテナは思い切り頭を振って、驚くくらい凛とした声で言い放つ。 「遊びじゃありません！ 少なくとも私にとっては、とても有意義な経験でした！ その時に教 えてもらった、庵さんの音楽に対する考え方は、凄く納得のいくものです。だからそれ以来、私 は貴方の言葉をいつも心に留めて歌ってきました！ 私は庵さんに感謝してます。音楽の素晴 らしさを改めて教えてくれたからです。だから・・・その貴重な体験を『遊び』なんて言わないで下 さい！」 一気に、心の奥に秘めていたものを吐露する。 それからアテナが、ハッ、と我に返ったのは、訝し気な表情で自分を見詰めている庵の姿を目 の当たりにした後だった。 顔に血液が急上昇してくるのが解る。 軽いパニック状態に陥り、彼女が必死で言葉を繋げた。 「あ！ あのっ！ そのっ！ ご、ごめんなさい！ 勝手なことばっか言っちゃって！」 それを耳にして、庵は、ふうう、と長い溜息をつく。 「よく周りを見てみろ。貴様の大声のお陰で注目の的だ」 彼の静かな口調を聞いてから、アテナは恐る恐る店内を見回す。 他の客と店員のすべての目線が、洋楽の棚の前にいる二名に注がれていた。 彼女は凍り付く。 脳内が白色化して、どうしていいのか判断出来ない。 その混乱が解消されるのを待たず、彼は動く。庵が踵を返して、真っ直ぐな歩調で自動ドアに 向かって歩き出した。 いきなりの行動に、アテナは慌てる。彼が突然その場を離れたからだ。 何の躊躇いもなく、空かさず後を追った。 庵は大きな歩幅で、アテナが入ってきた箇所とは反対の、新宿駅方面に近いドアから外に出 る。そのまま、すぐ目の前にある地下街への階段に身を躍らせた。 「待って！ 庵さん！」 騒ぎの張本人の声が背後から飛ぶ。庵は、少し呆れたような表情を向ける。 申し訳なさそうな、沈んだ色がへばり付いたアテナに、落ち着き払った声色で話し掛けた。 「まったく・・・貴様は自分の立場を理解してないのか？ わざわざ変装までして外出しておい て、自分で騒ぎを起こすとは・・・馬鹿さ加減にも程があるぞ」 階段の降り口に立ち竦み、彼女は数段下の庵の言葉を、全身に刻み付けるが如く真摯に受 け入れる。 「本当にすみませんでした・・・」 アテナが頭を深々と下げた。 「庵さんに迷惑かけるつもりはなかったんです。ごめんなさい」 すると、庵はゆっくりと彼女に対して身体を返し、据えた視線を投げて口を開く。 「こんな所でウロウロしているんだったら、とっとと帰ってライブの準備を完璧にしておけ。貴様 の歌を聞きに来る奴等も大勢いる筈だろう。音楽の素晴らしさを口にするのなら、それを多くの 奴に伝えるのが貴様の仕事ではないのか？」 彼女が思わず顔を挙げた途端、庵が断言した。 「貴様はプロだからな。それが出来る筈だ」 途端。 アテナは両目を全開にして、彼を見詰める。 その言葉が自分の裡に入った瞬間、まるで恒星のような眩い輝きを放ち、即座に彼女の憂い を吹き飛ばしたからだ。 何という、力強い一言だろうか。 庵が込めたであろう言霊はその持てる力を如何なく発揮し、アテナに再び晴れ晴れとした笑 顔を復活させることとなった。 それまでの鬱蒼とした表情が割れ、内側から喜色に溢れた笑み。 「はい！ 頑張ります!!」 張りのある元気な返事が、階段通路内に響く。 それを聞き届けると庵は、クルリ、と踵を返し、地下街へと降り始める。 彼の姿が遠ざかって見えなくなるまで、アテナはじっと庵の後ろ姿を見詰めていた。 別れ際の挨拶は、なかった。 それでも彼女は、最高の気分に浸っている。 （やっぱり凄いな、庵さん・・・） あの一言が、起爆剤と同じ効果をもたらした。 アテナの身体が、再びＣＤショップに吸い込まれていったのは、それから程なくだ。彼女は店員 や客の好奇の目線が集中する中、庵と話をしていた棚の前まで来た。すぐに、先ほど庵が手に していたケースを探し出そうと両手を忙しく動かす。 数分かけて漸く見付けたそれを、アテナは何の躊躇もせずカウンターに持っていく。 女性店員が伊達眼鏡の奥にある瞳を覗き込もうとするのも構わず、彼女が告げた。 「それ、包装してもらえますか？ 贈り物ですんで」 もしかしたら、同じＣＤを所持している可能性もある。それでもアテナは、自分の気持ちとしてこ れを贈ろう、と決心したのだ。 今回元気付けられた、お礼の意味を込めて。 店を出て靖国通りを引き返し始めたアテナの手に、それが握られていた。 包装は、蒼紫色。 庵の放つ炎の色と同じだった。 |
