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ある曇り空の日の、午後。
ハイエロファントは、大聖堂での執務が思いのほか早めに切り上がったので、真っ直ぐに帰宅 せずに家とは反対方向の野原まで散策に出掛けることにした。 そろそろ花も咲き揃い、いい季節になっている。そんな野原に出て過ごすのも、心の潤いを保 つのに適した時間の使い方と言えよう。彼は帽子を鏡の前で被り、杖を左手に握って執務室を 後にした。 大聖堂前の石畳を抜け、大通りから森の中へと続いている道を歩く。擦れ違う人々と挨拶を交 わしながら進み、段々とひと気がなくなって、やがてひとりで歩くようになった時、ハイエロファン トの脳裏に再び浮かんできた映像がある。 一週間ほど前、初めて出逢った女性の姿。 彼女の、紅玉のような瞳―――そして、一瞬だけ表れたその奥の色彩。 あの時以来、フッ、と何かの拍子に思い出す。何度も何度も、繰り返し繰り返し。 それが浮かび上がってくる度に、彼は何とも言えない気持ちの動きを感じていた。まるで吸い 込まれるような、妙な浮遊感があり、同時に胸を締め付けられるかの如き切なさを覚える。それ が一体何から来る感覚であるのか、少年には未だ測りきれてない。 ただひとつ、予想出来ていることがある。 彼女の瞳は、何かを言いたかったのではないか。 もちろん瞳は物を語らない。しかしあの彩りを思い出すと、必ずと言っていいほど心の中に、グ ッ、と鈍い痛みが湧いてくる。口という発言器官を介さずに、直接内面に訴えかけているような 気がしてならないのだ。 歩きながら、ハイエロファントは少し上に目線を向ける。 （今度逢う時は・・・きっと解るかな・・・逢えれば・・・） 樹木に囲まれた森の道を進んでいると、半時ほどで目的地が視界に飛び込んできた。鬱蒼と した木陰が切れて、開けた空間に緑色の絨毯が広がる。それを装飾する様々な草花が確認出 来て、彼の気分をやや浮かれるものへと転化させた。 草原の全容が目に飛び込んだ、次の瞬間。 突然、少年の足が凍てつく。同時に胸が、ドクン、と波打つ。 先客が、いた。 この道が野原に流れ込む入り口に近い、椅子の高さほどの小さな岩に、こちらに背を向けて 座っている人物がいた。 更に、それに向き合って立っている小柄な影がある。 何の気なしに、ハイエロファントは野原には入らず、近くの樹の幹に身体を隠す。それはまった くの無意識の行動であった。彼は瞬時に、ふたりの人物が会話をしていることを察知した上に、 第三者の立ち入ることの出来ない只ならぬ雰囲気を感じ取ったのである。 岩に腰を下ろしてるのは、彼が先ほどまで想い出していた人物。 デス。 少年の心臓が、早鐘を打ち鳴らす。 理由は判らない。来てはいけない場に来てしまったような感じだからか、それとも何度も想い 出している女性に急に逢えたからなのか。 座っている彼女の正面には、紺色のローブを着た背の低い男児が立っている。 まだ青洟を垂らしたその子の名は、フール。 白い猫を抱きかかえ、曇りのない目と無垢な表情を向けていた。 （フールくん、何を話してるんだろう？） 既に彼と旧知であったハイエロファントは、どんなことをデスと話しているのか、興味が湧いて くるのを感じていた。そして、耳をそばだてる。 立ち聞きがよくないことくらい、彼は当然理解している。ただ、今は出て行ってはならない―― ―直感がそう主張していた。後ろめたさを覚えながらも、少年が聴覚に神経を集中させる。 ふたりの会話が、耳に流れ込んできた。 「・・・にしても、お前はいつも幸せそうな顔だよな」 デスが、言葉を紡ぐ。 幼さが残るが、芯が通った声色。 対してフールは、抜けたような軽やかな声で話を返した。 「アニョーン・・・」 「そうか・・・そうだよな・・・あたしは死神だからな・・・楽しいことなんてないさ・・・」 ビクッ、とハイエロファントの身体が反応する。 先日逢った時には聞いていなかった、彼女の口調。 何という、寂寞さ。 胸の奥が焼けるような感覚が、じわりと湧き上がった。 「ニョミョン！」 「まったく・・・お前が羨ましいよ・・・」 息が、止まる。 少年の裡を、何かの衝撃が走り抜けた。 心臓が飛び出さんばかりに跳ね上がる。 先刻の寂寞さに輪をかけた、深遠な響きの言葉。 脳裏が痺れたような感覚に襲われ、ハイエロファントは茫然と虚空を見詰める。今の声は、か つて耳にしてきた多くの人々の様々な話し口調や言い方の、どれにも当てはまらない。 生まれて初めて聞いた、表現のしようのない色を含む語り。 「ニョーン、マニュー・・・」 フールが彼女を慰めようとしてか、話を続けた。 「ホニョン！ アニョニョン！ アニョーン、アニョーン・・・」 「・・・解ったよ・・・もういいよ・・・」 デスのその言葉を耳にして、フールは悲し気な目を向ける。そして何とも申し訳なさそうに項垂 れ、踵を返して野原を横切り立ち去って行った。 そして身動ぎもせずに、死神の少女は岩に腰を下ろしている。表情は窺い知れないが、自然 の状態ではないと推測された。 ハイエロファントは目を堅く閉じる。 遣る瀬ない感情。 デスの言葉が、深々と胸に突き刺さったまま融け始め、鐘が打たれて長時間の余韻を放つよ うに、やがて彼の全身に隈なく染みていく。鋭い痛みが残り、喉の奥を締め付ける。 いたたまれなさ、そして焦燥感。 次の瞬間、背中を思い切り押されたように、法王の少年は彼女に歩みを向けていた。 話をしたい。とにかくデスと話をしたい―――彼の裡は、その感情だけが充満している。 平静を装い、明るい口調で背後から挨拶をした。 「こんにちは、デス」 少し、声が上擦る。動揺は隠せない。 ゆっくりとした仕草で、彼女は振り返る。紅色の綺麗な瞳が真っ直ぐにハイエロファントを射抜 く。 少年の動悸が、一段と高まった。 しかしすぐに、デスの視線は正面に向き直る。 「・・・何の用だ？」 つい今しがたフールと会話をしていた口調とは打って変わって、以前に自分と話をした時と同 じ、唸るような低い声だ。まるで壁の向こうから言葉を発しているような、妙な拒絶感すら感じら れる。 「君の姿が見えたから、声をかけたんだけど・・・」 彼の回答に、死神の少女は短い溜め息をつく。 「・・・よっぽど法王という役目は暇なんだな。こんな真昼間からふらふらとほっつき歩けるんだ からな」 「いや、今日はもう仕事は終わったんだ。ちょっと時間が出来たんで、野原まで散歩に来たん だよ。そしたら君がいた、って訳なんだけど・・・」 デスの言葉は素っ気ないながらも、少年の緊張を解きほぐすには充分であった。 いつも通りの笑顔を浮べて、ハイエロファントは彼女の正面に回る。 「今日は、お休み？」 彼のその問いに、デスの瞳が少し丸く見開かれる。 直後すぐに、据わった視線を眼前に立つ少年に向けて言う。 「あのな・・・死神に休みがあると思うか？」 「え？ でもやっぱり休まないと身体に悪いよ。普段は一生懸命に働いて、休息日にはちゃん と休んで、身体と心に栄養をあげないとね。君は大変な“仕事”なんだから、休める時に休んで おかないと身体壊しちゃうよ」 その言葉に、偽善的な匂いはまったく感じられなかった。 明らかな、真剣さ。 デスは、ふうう、と長い息を吐き、頭を数回掻いてから呟く。 「・・・お前と話してると気が抜けそうだ」 「気に障った？ ごめんね」 「そういう訳じゃない」 死神の少女の口調には、確かに怒気は含まれていない。 ハイエロファントは、嬉しいという感情が湧き出てくるのを抑えられない様子であった。微笑を 絶やすことなく真っ直ぐに彼女を見詰め、会話を楽しんでいるからだ。 そして、法王の少年が目を一瞬横に泳がせ、伺う。 「隣、いいかな？」 デスの座している小さな岩には、もうひとりは腰を下ろせそうな空きがあった。上から見ると少 し楕円状を成す形で、長時間座っても疲れない程良い高さだ。 ちらり、と視線を流し、死神の少女は軽く俯く。 頷いた様子はないが、拒絶している態度でもない。 その雰囲気を噛み締めるように、ハイエロファントがデスの隣にゆっくりと腰を据える。 それから少年は、傍らの彼女を見た。 かなりの至近距離。 紫色の、きめ細かい質の髪。透明感を湛えた肌。 彼の鼓動が、再度走り始めた。身体の中を血液がもの凄い勢いで駆け上がってくるのが、は っきりと感じられる。 そしてはっきりと、ハイエロファントは感情を持った。 綺麗だ、と。 こういった気持ちは、もっと静かに湧くものだと思っていたが、彼はそれが誤りだと実感してい る。それが証拠に、今まさに自分の裡で荒れるほど昂ぶっている感覚を、冷静な理論で判断出 来ていない。説明のしようがないのだ。 思考能力が停滞した状態。他に何も考えられない。 ただ、デスだけを見詰めていた。 やがて、黙ったまま向けられている目線に気が付き、少女が訝し気に問う。 「・・・何をじろじろ見ている」 突然降ってきた言葉に、我に返った法王の少年が慌てふためく。 「え?! あ！ いやその！ 何でもないんだ！」 余りのことに、ハイエロファントの顔が一気に朱に染まる。まるで夕刻の空の如き急速さで、傍 から見ると鮮やかに感じるくらいの上気加減だった。 そして死神の少女が、やや呆れたような調子で口を開く。 「お前は可笑しな奴だと思ったが、むしろ変な奴だな。あたしを前にしてそんな訳の解らぬ態 度を見せる奴はいなかったからな」 「そうかなぁ・・・変なのかな、僕？」 ちょっと納得いかないような表情で、彼は質問を返す。 「他にはどうだか知れないが、少なくともあたしに対する態度は変だ」 デスの回答に、少年は彼女から僅かに視界を外してから考えを巡らせ始めた。自分としては 極自然な成り行きで話をしているに過ぎないし、それに付随して湧き起こる感情のひとつひとつ も仕組まれたものでなく、まったく当然な展開でしかないのだ。それ故に、変だ、と言われてしま うのが、彼には理解出来なかった。 そんなハイエロファントの様子を瞳の片隅に写し、デスは唇の端を軽く上げて言葉を紡ぐ。 「まったく・・・法王とはもう少し威厳があるものと思っていたが・・・」 顔を上げた少年が、再び彼女を見詰める。 直後。 デスから―――その言葉が発せられた。 「これではあたしを救うことなど出来ないかも知れないな・・・」 空気が、凍りつく。 （え・・・？） ハイエロファントの意識は、すべてが白色に覆われて停止した。 そして。 ハッ、と何かに気が付いたデスが、慌てたように口許に右手を当てる。 彼女は顔を下に向けて、焦点を合わさない虚ろな目線を前方に投げていた。その瞳には何物 も映ってはいまい。心が何処かに隠れ失せたかのような、蒼ざめた表情がへばり付いていたか らだ。 まるで、言ってはいけないことを口にしてしまったかの如く。 漸く色を戻してきた感覚を表情に浮かべ、法王の少年が訊ねる。 「・・・デス・・・今、何て・・・・」 その言葉で、少女の意識は改めて点火された。 驚くほど険しい顔立ちに変わったデスは、岩から腰を浮かせながら言い放つ。 「何でもない。今の言葉は忘れろ」 「でも・・・何でもないってことは・・・」 完全に立ち上がってから、勢いよく振り返って彼女が大声を上げた。 「忘れろと言った筈だ！」 そしてハイエロファントに向けられたのは、憤怒の形相。 ビクッ、と少年が反応する。一瞬だけ気圧された雰囲気を出したが、すぐさま彼は続いて身体 を起こして立つ。衣服に付いた土の汚れを気にすることもなく、やや堅めの表情でデスと正対し た。 「デス・・・もしかして君、何か悩み事があるの？」 法王の少年の問いに、彼女は怒りの色を少し和らげ、奥歯を食いしばった遣る方ない表情で 視線を彼から外す。質問に対する返答は、ない。 ハイエロファントは、続ける。 「何か悩みがあるんだったら、何でもいいから話してみてよ。僕に出来ることなら何でもするか ら」 溢れんばかりの真剣さを湛えた口調で、少女に語りかけた。 それでも、デスは突き刺すような目を向けて言葉を投げる。 「何でもないと言ってるのが判らんのか？ 仮にだ・・・よしんば悩みとやらがあったとしても、 お前のようにふらふらほっつき歩いてるような輩に話して、何が解決すると言うんだ？」 「そんなのやってみなきゃ判らないよ！」 驚くほどの、大声。 堅固さを持つ真っ直ぐな瞳。 死神の少女は、目を丸く見開いてハイエロファントを視界に焼き付ける。 彼がこれほどの声を張り上げ、怯みのない目を向けるとは想像していなかったらしい。 しかし、彼女のその顔を確認した途端に、少年が今までの状態を解いて申し訳なさそうに言葉 を漏らす。 「あ・・・ごめん。つい大声だしちゃって・・・」 普段通りの表情に戻ってから、彼が謝る。 しかしすぐに、再びしっかりとした口調と視線でデスに話し始めた。 「でもね、出来ることなら何でもする、っていうのは本気だよ。本当にそう思ってる。確かに君 の言う通り、僕は頼りないかも知れない。確実に問題を解決出来る保障もない。だけど、解決に 導けるように考えることは出来るよ。それがヒントにでもなってくれたら・・・僕は嬉しく感じる。そ れにね、ひとりで抱え込むよりは、誰かに話すことで気持ちも楽になると思うし・・・だからさ、デ ス・・・何かあるんだったら、僕に相談してほしいんだ・・・」 澄みきった、深い透明感を持つ声質。 空気に綺麗な波紋を描いているような、凛とした響きが広がっている。 それは確実な伝達で、死神の少女の裡へと染み込んでいく。彼女は目を閉じ、何も返さずに 少年の一言一句を吸収している様子である。ただ、顔には硬く蒼色を湛えた表情を浮べたまま だ。 ハイエロファントの語りが終わってから暫くは、動きも、返す言葉もなかった。 どれくらいの時間が経ったろうか。 いきなりデスが、少年に背を向けた。 後方から注がれる心配気な眼差しを感じながら、彼女は呟くように言う。 「・・・あたしとしたことが、お喋りが過ぎたようだ・・・」 直後。 やや肩を窄めるような動作の後に、少女の足が地面を軽く蹴った。 彼女はそのまま、野原を一直線に歩き始める。時に速足になり、一刻も早くこの場を立ち去り たいかのように、躊躇など微塵も感じられない速度だ。見る間に距離が置かれる。 そして、デスは姿を消した。 法王の少年を、一度も振り返ることなく。 風に頬を撫でられるまで、ハイエロファントは茫然と立ち尽くしてした。 彼の脳裏は今、少女の語りと表情が渦を巻いたまま混乱している。他に介入する思考など、 何ひとつない。ただただ、デスのことだけが純度の高い状態で存在していたのであった。 紅色の、鮮やかな瞳が。 紫の髪と、端正な顔立ちが。 そして―――自分が耳にした彼女のあらゆる語りが。 （・・・デス・・・） 切なく、胸を締め付けられる想いに、法王の少年は眉を寄せ、天を仰ぐ。 やがて、幾許かの時が飛び去り。 圧迫感を覚えるくらい低くなってきた黒雲に気が付き、漸く混沌から醒めたかの如く、ハイエロ ファントはそこを離れて街の方角へと戻っていった。 言いようのない感情に、支配されたまま。 何かを告げるかのように、遠方で雷鳴が響いた。 |
