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黒い雲が低く垂れ込め、肌寒さを覚える。
つい半時ほど前には青空が広がっていたが、今はこんな天気だ。 いつもは穏やかでそよぐ風が優しい、ここ『マジカルランド』では、天と地に満ちる魔力に大き な変化がない限り、天候が急変して荒れることがない。 しかし、ここ数週間は違う。 天気が短時間で突然変化し、先が読めないのだ。 そんな、重苦しい雲が被さろうとしている山森の中の一本道を、ひとりの少年が走っていた。 白と黄緑の色彩をした法衣を着ており、蒼みがかった髪が帽子からこぼれている。顔立ちが 幼い。茶色の大きな瞳が驚くほど澄んでおり、爽やかな印象をも与える。手には、黄金色の柄 に紺色の水晶玉が付いた短めの杖を握っていた。 少年の名は、ハイエロファント。 もうすぐ雨になるだろう、と彼は予想していた。まるで雲に追い立てられるように、森の奥にあ る自宅へと急ぐ。なだらかながらも確実な傾斜を持つ山道は、少年の脈動をいやが上にも高め ていた。 道沿いの左に並ぶ樹立ちの向こう側は、街を見下ろせる高台となっている。たまに、彼はそこ から風景を眺めて楽しみ、よい気分転換としていた。 天気が気になるので、今日は真っ直ぐに帰宅するつもりであった。それでも、何気なく高台の 方に目をやる。 ハッ、として、思わず足を停めた。 誰かがいる。 ハイエロファントは、目を凝らす。 紫の髪をしている人物で、大きなフードが目立つ紺色のローブを纏っていた。手には銀色の棒 状の物を持っているが、こちらからは後ろ向きで一部しか見えず、それが何であるかここからは 窺い知れない。どうやら眼下に広がる街並みか、空を渡る雲行きのどちらかを見ているらしい。 少年の知り合いではない。 彼は、高台に歩みを向ける。 樹立ちを抜け、ハイエロファントは尚も近付き、その人物のほぼ真後ろで言葉を発する。 「こんにちは」 紫の髪が動き、身体が返る。 少年は、驚嘆した。 女性だ。 年齢は自分と同じか、やや上だろうか。紺の革製の、大胆な曲線を形状としている、身体に密 着したスーツを着用している。背丈が自分よりも少し低いか、あるいは同じくらいにも思える。そ して着衣の腰の部分と、鋭角を成す尖った耳に、髑髏の形をした装飾品を着けていた。そして 驚くべきことに、先ほど全体像が判明しなかった銀色の棒は、何とも大きく、とても簡単に扱え そうにない武器―――大鎌であることが判った。 瞳が、紅玉のように輝く。しかしそこに満ちているのは、こちらを敵として見ているような、殺気 にも似た波動である。 「誰だ、お前・・・」 彼女の口が動く。低音を含んではいるが、妙な幼さが余韻に残る。 少年は、穏やかな口調で返事をした。 「僕は、ハイエロファント。この近くに住んでるんだ。君とは初めて逢うね。名前は、何ていう の？」 手を後ろに組み、微笑を浮かべて少女を見詰める。 「何だ、お前・・・あたしを知らないのか？」 眉間に皺を寄せ、目を細めて彼女は返す。 「あたしの名は、デス。死神さ・・・」 「死神？ 君があの？」 少年が感心したような声を出した。好奇に溢れた視線を、彼女の全体に隈なく走らせる。 「話には、死神は髑髏の顔をしてるって聞いてたんだけど・・・」 髑髏どころか、端正で綺麗な顔立ちだ。 心底、ハイエロファントは驚き、感心している。 「髑髏？ ああ、これのことか」 そう言うと彼女は、ローブの内側から何かを取り出した。それを少年の前で掲げてみせる。 それは『面』であった。灰褐色をした髑髏の顔で、額の部分に鎌の形の窪みがある。全体の 厚みはそれほどでもないが、薄い割には堅固で丈夫そうな代物だ。 「これは“仕事”の時しか装着しないのでな・・・」 そう呟くと、射るような視線を彼に向ける。 それに対して少年は、まったく動じる様子がない。それどころか、興味津々とでも言いた気に 何度も大きく頷き、彼女に目線を固定して笑顔を向けていた。 首狩りを行う死神が存在する―――という事実は、知識や話題としてハイエロファントの中に 既にあった。しかし彼は、今まで逢ったことも話したこともなかった上、人づてで噂などを耳にし ていたに過ぎない。死神という人物に対してはある種の想像のみで完結していた。だが実際に 逢ってみると、まさか自分と同い年くらいの少女だったとは夢にも思っていなかったのだ。 デスは、彼の反応に眉をひそめた。 「お前・・・あたしが怖くないのか？」 『面』を懐にしまい、訝し気に少年を見詰めて口を開く。 ハイエロファントは、頷く。 「怖いというよりも、驚いたよ。死神が女の子だったなんて思ってもみなかったからね」 「下らんことを・・・あたしが女だろうが何だろうが、死神であることに変わりはない」 少女の目線が、更に据わったものへと転化した。 「そう・・・あたしは首を刈ることが生き甲斐の、死神なんだ」 そう言って、彼に眼差しを向ける。 途端。 ハイエロファントの両眼に、それが飛び込む。 デスの瞳と、奥に潜んでいた色。 刹那の間だけ顔を覗かせた、何かを秘めた彩り。 （え・・・？） 少年は、ドキッ、として視線を固める。 しかし直後、それは彼女の瞳から姿を消す。後には、再び鋭利な目で自分を睨む少女がその 場にいた。 だが、ほんの一瞬ではあったが、その彩りを湛えたデスの瞳は、色褪せない絵画の如く明確 な映像で彼の裡に焼き付いた。そして、定着する。 （今の、目は・・・） 彼の中で判断がつかないうちに、少女は踵を返し、再度遠くに視線を投げる。 それを確認すると、少年は慌てたように彼女の傍らに歩み寄り、同一方向に目を向けて言葉 を繋げた。 「何を見てるの？」 デスはそれには即答せず、暫く黙る。 数十秒もの間を開けて、漸く語った。 「お前に関係があるのか？」 「関係というか、僕もここからよく風景を眺めているからね。君は何を見てるのかな、と 思ってね」 「・・・法王というのは、呑気な職業なんだな」 彼女の台詞に、ハイエロファントは驚く。 「知ってたんだ？ 僕のこと」 爽やかな笑みを湛え、少女の顔を覗き込む。 それにもデスは、表情を一切変えずに答えた。 「有名だからな。しかし、こんなに幼いとは思わなかったが・・・」 少年が、彼女の方に身体を正対させ、言う。 「そんなに幼く見える？ 一応十八歳なんだけどな・・・」 「・・・あたしと同い年か」 「え！ そうなの？ 同い年の人と知り合えたのは初めてだよ」 デスの言葉は、ハイエロファントに明るい感情を与えることとなった。それが証拠に、彼はとて も嬉しそうに目を細め、抑えきれない湧き出る気持ちを満面の笑みで表している。 少女は、何とも不思議そうに彼を見詰めた。 何故、この少年はこうも純粋な反応を見せるのだろう。今まで見たこともない、穏やかで素直 な応対は、彼女の裡にほんの僅かではあるが精神の安定をもたらした。 しかしそれを表面に出すことなく、死神の少女は黙り込み、顔を戻してもう一度彼方を眺める。 ハイエロファントは、ふう、と息を継いで話す。 「さてと・・・そろそろ帰らなきゃ。雨が降ってきそうだから、ね。君ももう、ここを離れた方がい いよ。雨宿りするところも・・・」 「ひとつ、質問がある」 突然、彼女が割り込む。 「え、何？」 「街の奴等に、生命力の薄い連中が増えた。まるで生きたまま死んでいるような、妙な連中 だ。そうなった原因が判らない。お前、何か心当たりがあるか？」 口調の端に、濃厚な雰囲気が漂う。 更にその問いは、法王の少年にある感情を思い起こさせる発端となった。 彼の笑顔が消える。 代わりに浮かんできたのは、辛辣な眼差しを携え、やりきれなさそうな思いに奥歯を噛み締め た、真剣そのものの表情であったのだ。 死神の少女は、少しだけ感心したような顔になる。 穏やかな気だけではなく、芯に秘めた確固たる思いが裡に存在することが、今の彼から理解 出来たからだ。 ハイエロファントは、静かに口を開いた。 「僕にも判らない・・・何とかしなきゃ、とは思ってるんだけど・・・」 歯がゆそうな、焦りすら窺える声。 「でも本当に、僕が何とかしなきゃ」 一転して、真摯で硬い意思に漲る口調になる。目線はしっかりと据わったものになり、先ほど 感じられた内面の強固さを余すことなく表現しているようだった。 デスが口許に笑みを浮かべ、呟いた。 「成る程、法王か・・・」 「え、何？」 「いや、何でもない」 不意に口に出た言葉を隠すように、彼女は間髪入れず口を開く。 そして、ローブの裾を鮮やかに翻し、少年を一瞥して踵を返す。少し驚いた表情を見せる彼 に、デスは言った。 「いずれ逢うこともあるだろう。その時は首を頂くかも知れん。覚悟しておけ」 冷酷な声色だ。 だが逆にハイエロファントは、穏和な表情を湛え、彼女を凝視しながら言葉を放つ。 「あ、そうだ。さっきの質問の件、判ったら連絡したいんだけど・・・場所さえ指定してくれたら僕 が出向くし、じゃなかったら、僕は大聖堂で執務してるんでそっちに来てくれてもいいよ」 先刻の言葉に、微塵も恐れている様子がない。それどころか、次に逢う段取りを行っている。 拍子抜けしたように、少女が笑みを掻き消す。そして言い放った。 「可笑しな奴だな、お前」 相も変わらず微笑を浮かべた彼の顔を、死神の少女は見詰める。 直後、くるり、と森の中へと向きを変え、そのまま一直線に歩いて、やがて姿を消した。 デスが立ち去った後も、ハイエロファントは暫くの間、彼女が見えなくなった方向に視線を投 げ、大きな溜め息を漏らす。 脳裏にしっかりと焼き付いた、少女の瞳。 一体何が、あの奥に秘められているのだろうか。 （デスは、何故あんな目をしてるのかな・・・） おのれの裡で呟く。 既に、彼には死神の少女への興味が生まれている。 やがて、雨を呼ぶ冷たい風が頬を撫で、それに急かされたように、彼は再び家路を辿る。 この日。 デスとハイエロファントは、出逢った。 互いの心の扉は、叩かれたのだ。 |
